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臨時 vol 296 「国の成り立ちから医療を考える-ドイツの場合 (後)」

医療ガバナンス学会 (2009年10月19日 17:35)


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医師のキャリアパスを考える医学生の会、東京大学医学部4年
森田知宏

ナチス政権と医師
ついにドイツの暗黒時代に移る。さきにも述べたが、1929年の世界大恐慌によって最も影響
を受けたのはおそらくドイツである。アメリカの銀行は敗戦時の貸付金返済を強く求め、ドイツ
経済は支えを失った。1932年のドイツの失業者は600万人に上る。この経済混乱、ドイツ国民
の不安を巧みに利用し、次第にヒトラーが台頭した。
1933年ヒトラーが首相に就任し、ワイマール共和国は崩壊、「第三帝国」が誕生し、ナチス政
権による支配が始まった。疾病金庫、医師会などの自治は、ナチスの基本的なイデオロギーであ
る指導者原理、すなわち「単独の指導者が強大な決定権をもつ」という原則に反するものであっ
た。1933年、反ナチス系役員が疾病金庫から排除され、「健全」な運営を目的として国家監督官
が疾病金庫へ派遣された。1934年には「社会保険の再建に関する法律」が制定され、疾病金庫
の自治は法的にも認められなくなった。また、第二次世界大戦に向けて国家財政を補充するため、
疾病金庫は国家への多額の貸し付けを余儀なくされた。ビスマルク以来連綿と続いたドイツの国
家保険制度は一旦幕を下ろさざるを得なくなった。

ドイツ医師会も抑圧され、1873年に第一回の会議が開催されて以来続いていたドイツ医師会
議も、1932年から1947年に至るまで開催されなかった。ここに、医師が自律した専門家集団を
形成するという伝統が中断されることとなる。ナチスドイツではユダヤ人やポーランド人を用い
て人体実験が行われており、医師の中にはカール・ブラントやヴァルデマール・ホーフェン(と
もに後に死刑)などのように、ナチスの所業の一端を担っている者もいた。1945年から開かれ
たニュールンベルグ裁判ではナチスに加担した医師20名が罪を問われ、7名が無罪となったほ
かは、4名が死刑、5名が終身刑、その他の4名は禁固10年から20年の刑に処せられた。この
裁判では、非人道的な人体実験を繰り返さないよう、「医学的研究のために行われる人体実験に
おいては実験対象となる人間の自発的な同意が欠かせない」とするニュールンベルグ綱領が作成
された。これを受け、世界医師会は1964年にヘルシンキ宣言を出し、国際的な医学倫理基準を
定めた。

余談だが、西ドイツ医師会はナチスの所業について1949年に声明を発表しており、「将来ドイ
ツ人医師が医学を裏切ることを全力で防止する」とともに、「医学の職業的義務に対して罪を犯
した医師を、職業的裁判権を以て全力で罰する」旨を全世界に誓っている。

1945年5月、ナチスドイツは連合国に対し、無条件降伏し、アメリカ、イギリス、フランス、
ソ連の4カ国による分割占領が行われた。戦争によって財産を消失し、さらに国家への貸し付け
が無価値となったことで疾病金庫は破綻し、保険業務の遂行が不可能となった。4カ国の占領領
域それぞれ独自の規定により疾病金庫の再建が試みられた。

東ドイツと医療
東ドイツ領域は大戦直後、ソ連の占領下におかれた。1945年夏、「労働・社会扶助中央管理機
構」が創設され、新社会保険に向けての法案策定が開始され、老齢、障害、戦傷、疾病などの事
由をすべて組み込んだ統一的な社会保険の創設が目指された。また、ソ連と西側三国との間で、
全ドイツ的に統一保険形態の社会保険を再構築することで合意が行われると、保険の統合が行わ
れ、旧来の個々の保険機関は排除された。疾病金庫等からの抵抗はあったものの、ソビエト政府
は大戦前に組織されていた職域・地域毎の利害組織の再建を認めなかったため、抵抗が生じにく
かった。

西側三国の占領地域が、統一型社会保険の方向に向かわなくなることが決定的になると、ソ連
は独自の道を歩み出す。1947年1月に、社会保険の統一化をソビエト占領領域単独で、そして
州レベルでなく占領領域全体のレベルで推進するように命令を出した。また同日に社会義務保険
に関する法令が発令された。ドイツの社会保険において伝統的に存在した職域ごとの保険を廃し、
官吏の別枠制度も撤廃した。しかし、被保険者、使用者が毎月所得の一割を納めるという伝統は
受け継がれた。
1948年にソ連がベルリンを封鎖すると、ドイツは分断され、東ドイツは西側とは異なる道を
歩むこととなる。
1949年、ソ連占領地区にドイツ民主共和国(東ドイツ)が設立された。東ドイツ建国後、ド
イツ社会主義統一党は社会保険制度の改変を図るが、ソビエト占領期の枠組みは維持され、東ド
イツ憲法にも盛り込まれた。しかし、50年代前半に社会保険は財政難に陥る。1953年6月17
日、激しいノルマに対して東ドイツ全土で労働者が蜂起し、ソ連の武力介入を招く事態に発展す
るという事件が起こる。この蜂起以来、社会保険の被保険者負担の引き上げ、給付の縮小ともに
政治的に不可能になった。むしろ、その後の経済状況の悪化により給付を拡大せざるを得ず、そ
の齟齬は国家財政からの補助でまかなうこととなった。こうして、社会保険の社会性がより拡張
されることとなり中央集権化が進んだ。近代ドイツにおいて実現されてきた、地域・職域ごとの
保険制度は跡形もなくなってしまった。

西ドイツと医療
四分割されていたベルリンにおいてはベルリン社会保険庁が新設され、統一保険の導入が図ら
れていたが、英米仏の3カ国の占領地区では伝統的なドイツ社会保険を維持することが決定され
た。これは、ドイツの制度が長年多くの国のモデルになってきたこと、ドイツ人も社会保険の伝
統を強い誇りとしていることによるものと思われる。1949年、新たな憲法として「ボン基本法」
が制定され、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が誕生した。ナチス政権下で剥奪された疾病金庫の
自治権は、1951年の「社会自治復活法」によって回復された。また、ボン基本法は保険診療の
広範囲を州の管轄と定め、州ごとの医師の監督権を州政府から州医師会へ移管された。1955年
の「保険医法」によって保険医協会が再建され、疾病金庫と契約を結び、また疾病金庫とともに
診療報酬の算定に参加する役割を担った。医師の自律の伝統が復活したのだ。

1970年代に入り、SPD(ドイツ社会民主党)の政策、ドイツ経済の高度成長を背景に、疾病金
庫への国民の加入義務は拡大し国民の8割を超えるまでに至り、被保険者への給付も拡充されて
いった。これは西ドイツが堅調な経済成長を続けていたおかげで支えられており、今後もこの成
長が

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