医療ガバナンス学会 (2016年8月5日 06:00)
夕張メロン誕生物語
http://www.ja-yubari-shop.jp/hpgen/HPB/entries/2.html
ブランドとしての夕張メロンを育て上げてきたのは、厳しい品質管理基準と廃棄も辞さない姿勢、農民一人一人の地道な努力の継続と、産地直送をはじめとする進取の気性など、多くの要素であったことがわかるように思います。
今回は、昨今話題の日本での専門医制度について考えてみます。お付き合い下さい。
まず、現状の専門医制度についての議論を概観する必要があります。下記をご一読下さい。
MRIC Vol.140
現場を知らない医療改革、新専門医制度の陥穽
~中央集権的な進め方ではなく、多様な資格制度を~
森田 麻里子
http://medg.jp/mt/?p=6796
森田先生による専門医制度を巡る問題点の指摘は、この問題について長く施策を練っていらっしゃるだけにあって、さすがに過不足がありません。ただし、一点だけ、説明不足に陥っている点があります。それは、ご承知の方も多いかと思いますが、森田先生御自身は麻酔科医であるということです。
現在の初期研修医制度、また新たな専門医制度は、実際には、医師全体の半数を占める内科医の育成を主眼として設計されています。他診療科のことは、ほとんど、あるいは全く念頭にありません。従って、この新たな専門医制度では、実務上、内科医全てが持つべき共通の能力と、臓器別の各内科領域に於いて備えるべき専門的診療能力のそれぞれを明確にし、両者を公正に評価することを本旨としています。しかし、内科医が麻酔をかけるとか、胃がんの手術をするとか、人工関節置換術をすることなど想定されていません。実際に検討の対象にもなっていません。その他の診療科は、制度の中で、医師が持つべき共通の能力としては、ほぼ全てがその対象外になっているわけです。
本来、医療は家庭と生活に密着した存在です。それを近年の日本では、医療機関を大規模集約化し、病院内部では臓器別専門領域に狭く細かく分けることによって、管理を容易にし、質の向上を追求してきました。
この流れの中で考えるなら、専門医の各々の担当する領域については、重複はあっても、欠落はないようにデザインする必要があります。専門分化の狭間が在ってはいけません。ところが、その種の摺り合わせを行う作業が、ここまで話題に上ったことはありません。
広く浅くという考え方は、大規模集約化と臓器別細分化とは真っ向から対立する考え方です。この、広く浅くというのは、医師免許取得後2年間義務付けられている、初期臨床研修制度で行われている考え方です。その目的は、「医師が将来専門とする分野にかかわらず、(一般的な診療において頻繁に関わる負傷又は疾病に適切に対応できるよう、)基本的な診療能力を身につけること」にあります。
現行の初期研修は、一般にスーパーローテート型研修と呼ばれます。具体的には、現在、必修科目として内科、救急、地域医療の3分野が有り、選択必修科目として外科、麻酔科、産婦人科、小児科、精神科の5診療科の内から2診療科以上を、さらにこれら以外の診療科も希望があれば研修することになっています。つまり、多くの診療科をぐるぐると回る研修であるけれども、全員が必ず経験しているのは内科と救急と地域医療の3分野だけというわけです。
初期研修制度の基礎の上に専門医制度が構築される以上、初期研修で行われることと、行われないことの各々を無視することはできません。内科、救急、地域医療の三分野に「専門医を名乗る全ての領域の医師に共通して備えるべき能力」あるいは「…専門とする分野にかかわらず、基本的な診療能力」を求めることになります。裏返せば、専門医に共通して備えるべき能力としては、初期研修で全ての医師が既に必ず身につけたはずの、内科と救急と地域医療の三分野以外を求めることはできません。
専門医としての研修中に、初期研修で学ばなかった、専門外の分野のことを新たに学ぶ機会を得るのは難しいことです。また、スーパーローテート型研修を受けなかった自分のような世代の指導医に、これを評価させることも困難です。もし無理に評価しようとするなら、それはもはや専門医教育とは言えないでしょうし、結果の保証は誰にもできません。
無論、初期研修の内容の生涯教育は、それはそれできちんと制度化すべきです。しかし、専門医養成のついでに、専門医教育の中で行えると考えるのには、特に内科医ではない専門医では無理があります。
内科ではない医師にとって、新たな専門医制度の本旨は意味不明です。麻酔科医としての修行に邁進する森田先生が納得するわけがないでしょう。
そもそも、この新しい専門医制度はそういうものとして計画が始まったものではなかったように思います。内科を中心に据え、他診療科の実情を無視した大きな変更は、平成22年の制度見直しの際に行われました。必修診療科の絞り込みが行われたのはこの時のことです。見直しは難しい作業になるであろうことが容易に予想できます。おそらく根本的な改革は今回行われないでしょう。
ところで、医師以外の目から見た専門医制度はどういうものなのでしょうか。
自分が外科医の修行をしていたころの専門医制度は、今とはかなり内実の違うものでした。まだ医局講座制度が強固であった時代のことで、専門医制度も実質的に大学医局の中のものでした。口頭試験の行われる場合、他医局の教官が試験官になりましたが、そもそも研修プログラムはほとんどの場合、所属する医局の教授が責任者となっており、実際に市中病院にいて教授の顔など全く見ていなかったとしても、大学医局の外で専門医を取得することは甚だ困難でした。
いま検討中の専門医制度は、概ね同じ仕組みになっています。先祖返りするわけです。
専門医制度は、全国の大学医局が各々で独占することになります。大学医局間での研修医の争奪戦が引き続き行われることでしょう。
専門家による市場独占は、しばしば権力の免許によって行われます。日本の医師制度(医制)も、明治期を通じて徐々に国家による独占の体制を整え、国家免許制度である医籍によって実現されました。それ以前、江戸期を通じて、医師の公的免許はなかったのです。そして、医師養成が官立学校等によってのみ行われることを原則としたことによって、独学でも医籍登録可能な医術開業試験が、大正5年(1916年)に廃止されます。
専門家の市場独占は、質の保証と引き替えに権力が専門家集団に供給のコントロールを許すことになります。
日本の臨床研修制度が変わったのは、様々な意味で質の保証が為されていないという批判がきっかけでした。専門医制度もまた同じ文脈で議論が始まりました。かつて、大学医局は批判に耐えることができませんでしたが、今度はどうでしょう。
皮肉なことに、かつての大学医局は供給のコントロールをすることができませんでした。互いに競合関係に有り、ライバルの大学医局より優位に立つためには、何より所属する医師である医局員を増やし、関連病院をより多く確保する必要があります。増やすためには、品質管理基準に目をつぶることも必要です。基準に達することのない医師であっても、専門医資格を付与しなければなりません。地道な努力や進取の工夫は二の次です。何らかの形で、互いに明瞭な境界線を引き、その内側での独占を実現しなければ、質の保証も供給のコントロールもできないのです。
専門医制度相互の境界線が曖昧であることについては既に指摘しました。専門分化の狭間は解消される見込みがありません。
地域偏在についても、解消は不可能です。同じ専門医制度が、独占ではなく、各々異なる80以上の大学医局によって共有されます。大学医局の臨床プログラムが専門医制度から駄目を出され、はじき出されることは、どう考えても想定されていません。運用上も分割されて実現されることが決まっているわけです。
この実情の中では、如何なる意味でも偏在の解消など不可能です。過剰に陥っている診療科であっても、数を制限することはできません。それが証拠に、既に専門医のプログラムの定員総数が、実際の医師数のおよそ倍になることが公表されています。
大学医局が個別に病院とヒモ付けられることは困難です。また、集約化と大規模化の流れの中で、消えかけている地方中小病院の延命に大学医局が人を出す謂われも余裕もないわけです。地域偏在の解消はなされないでしょう。
供給のコントロールを行うのであれば、まず、各々の専門医制度で厳格な定員の設定が必要です。過剰に陥っている診療科については、まず、全体としての供給制限を行う必要があります。定員をギリギリまで絞り込まなければなりません。その上で地域偏在の解消に寄与するのであれば、その責任は各々の専門医制度のものになり、全国の病院への専門医の配置を、各大学医局でなく、専門医制度が検討し、実現しなければならないというのが理屈です。
たとえば最もシンプルな制度を考えるなら、地域別、医療機関別にその専門医の担当するはずの患者数等を基準に配置計画をするなどの方法があります。研修医や新規に専門医資格を取得した若い医師だけでなく、指導医もまたその計画に従うのが、専門家による独占のために課せられる条件になるでしょう。
森田先生は、新たな専門医制度が中央集権的であるという点を批判していらっしゃいます。しかし、独占という側面から考えると、甚だ分権化が過ぎるという批判も成立するのです。
また、もし、どの専門医も過剰に陥っていない、あるいは出入りはあっても全体として不足しているというのであれば、医師養成数が過剰であるという批判は失当ということになります。医学部の入学定員は、専門医制度の定員総数まで引き上げなければなりません。
新たな専門医制度を見る限り、医師の専門家としての自己決定能力は、甚だ乏しいと言うべきです。