臨時 vol 52 「医療の危機(上):心の問題」
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訴訟と激務で産科医不足
社会思想含め見直しが必要
虎の門病院 泌尿器科 小松秀樹
※日刊工業新聞 2月4日掲載
社会にはさまざまな憂慮すべき問題が発生する。台風や地震のような自然災害、
環境汚染のような文明社会の活動に付随するリスクがある。日本における医療崩
壊現象は、これらとは異なり、人間の心の問題が大きい。
●都会に波及
地方の医師不足、自治体病院の崩壊が頻繁に報道されるようになって久しい。
08年10月、脳出血を起こした妊婦が、東京の七つの医療機関から受け入れを断わ
られた事件が報じられ、医師不足が都会に及んでいることが明らかになった。消
防庁の調査によると、妊産婦の救急搬送で、受け入れ病院がなかなか決まらずに、
現場に30分以上滞在を余儀なくされる割合は、全国の都市の中で大きな差があり、
川崎、横浜、東京が最も高い。
元日の全国実業団駅伝の放送で、アフリカ出身のある選手の婚約者と赤ちゃん
が周産期に死亡したというエピソードが紹介された。日本でこのようなことが起
こると、犯人探しがはじまる。
戦後、日本でも年間4千名以上の妊産婦が死亡していた。医療の進歩と産科医
の努力で、数十名まで減少した(図)。安全性(=リスク)は世界的に見てもトッ
プレベルである。しかし、リスクは軽減したのであって、消滅したわけではない
し、医療現場が万全の体制にあるわけでもない。
日本では、リスクが小さくなったが故に、不幸な結果は、患者・家族に許容さ
れにくい。お産はそもそも喜ばしいことなので、結果が悪いと落差が大きく、憎
しみが生じやすい。産婦人科は全診療科の中で最も訴訟リスクが高い。過剰労働
と相俟って、病院を支える産科医の心が折れた。
北里大学の海野信也教授は精密なデータでこれを裏付けている。06年の産婦人
科医の総数は約1万人。これが毎年180名ずつ減少している。00年から06年までに
全医師数は8%増えたが、産婦人科医は9%減少した。重症患者を扱う公的病院から、
重症患者が少なく待遇のよい私立病院に中堅医師が移る傾向が強い。診療所の勤
務医はむしろ増加している。30歳未満の産婦人科医の70%は女性だが、女性産婦
人科医の半数は研修開始後15年で分娩を扱わなくなる。分娩施設は02年から05年
までの3年間で11%、373施設減少した。
●相次ぐ撤退
06年、県立大野病院事件で産科医が逮捕されたことをきっかけに、分娩を取り
やめる施設がさらに増えた。従来、リスクのある患者を引き受けてきた二次病院
が、ハイリスク妊娠から撤退して、リスク中等度の症例を大学病院や周産期セン
ターに送る傾向がつよくなった。県立大野病院事件後、多くの大学病院で、前置
胎盤症例受け入れが、2-3倍に増加したという。総合周産期母子医療センターは、
分娩が集中し、ハイリスク症例の受け入れが困難になった。
東京のある私立病院には、十数名の産婦人科医が勤務している。たいていの周
産期センターより多い。多数の正常分娩を扱っているが、リスクのある分娩を引
き受けたがらない。医師たちは5時になると当直医を残して病院を後にするとい
う。軋轢に傷つきながらも、かろうじて産科診療に留まっている。
東京都は、重症妊婦の受け入れを断わらない「スーパー周産期母子医療センター」
制度を創設する。脳出血の妊婦の事件で最終的に患者を受け入れた墨東病院は、
夜間も2名の産科医の当直が望ましいとされる周産期センターだが、半ば崩壊状
態にあった。産婦人科医は6名しか在籍しておらず、当直も1名しか置いていなかっ
た。受け入れ不能の主因である新生児を扱うNICUの不足は、施設の不足というよ
り専門医の不足による。東京都の新制度は発足できたとしても、維持不可能だろ
う。かえって周産期医療の崩壊を早める。情報の共有を進めることで、現有勢力
全体を効果的に使うことしか現実的対応はない。
●社会思想
海野教授は、現在、量の減少のためにアクセスに問題が生じているだけだが、
この状況が続けば、将来、質の低下が生じると危惧する。将来の分娩を支えるた
めには、年間500名が新たに産婦人科医になる必要があるというが、現状では見
通しは暗い。待遇改善、理不尽な刑事立件の抑制だけでは、この問題は解決でき
ない。
思想家の内田樹氏は、日本は市民社会ではなく、庶民社会だという。市民は社
会に貢献して責任を分担するが、庶民は要求するのみだという。庶民は、無理な
安心と安全を求めて、社会を支える専門家を追い詰める。庶民の理不尽な行動に
対するチェック・アンド・バランス機能は、現代の日本社会には組み込まれてい
ない。産科医療が再生するための具体的好材料は現時点ではない。日本の医療崩
壊現象は、社会崩壊現象といってもよい側面を持つ。日本社会を、社会思想を含
めて根本から見直す必要がある。日本社会にこの力があるかどうか、私には分か
らない。歴史書の多くは、危機に対応できず没落していく国家の記述である。