医療ガバナンス学会 (2016年11月10日 06:00)
この原稿はJBPRESSからの転載です。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/48240
南相馬市南相馬市立総合病院
尾崎章彦
2016年11月10日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
この大統領は自国において就任から3か月経過した9月時点で86%もの支持率を誇っているという。日本においては彼に対する好意的な報道は少ないため、なぜフィリピン国民から熱狂的に彼が支持されているのか私は疑問に感じていた。
この10月フィリピンの首都マニラを訪問した。そこで彼の人気の一端に触れる機会があった。
以前から親しくしている現地の医学生ダイアンとレストランで食事をとった時のことである。ウェイターが「DUTERTE」と名前が入ったリストバンドをつけていたので、私は「大統領のファンなのですか」と尋ねてみた。
すると彼は「俺は彼が市長を務めていたダバオ市の出身なんだ。彼は地元の英雄だよ。」と笑いながらそのリストバンドを私にくれた。
●貧困層からの支持は絶大だが・・・
ダバオ市において彼が市長を務めていた22年間の間に犯罪が激減したのは有名である。その他、麻薬犯罪の撲滅や深夜の酒類の販売禁止、公共の場所での喫煙の禁止など特筆すべき業績を多数挙げている。また汚職を嫌い質素な生活を送っていることでも尊敬を集めていたという。
大統領となった現在、貧困や犯罪、汚職を撲滅するという彼のメッセージは多くの国民に支持されている。実際、フィリピン滞在中機会があるごとに現地の方々にドゥテルテ大統領について尋ねてみたが、誰一人として彼のことを悪く言う人はいなかった。
ただし、よくよく話を聞くと、彼に対する支持は社会的な背景によって異なっているという。彼を熱狂的に支持しているのは貧困や飢えなど現状の政策において十分な恩恵を受けていない人々である。
一方で、知識層や経済人には彼を支持しない人も多い。米国をないがしろにする外交姿勢や彼が容認する超法規的な殺人が理由である。
実際、フィリピン出身の弁護士の友人はドゥテルテ大統領の犯罪対策は人権を軽んじるものとして強く非難していた。とは言え支持率が90%前後を推移しているというのは国民が総じて彼の働きを支持しているということの裏づけである。
特に市長時代にも見せていた行動力や実行力が評価されているようだ。ではなぜこの時期に彼のようなリーダーが必要だったのだろうか。
それはこの国にはびこる貧困が大きく関係している。恥ずかしながら 私は貧困がフィリピンにおいてここまで大きな問題であることを知らなかったし、そもそも考えたこともなかった。
なぜならば近年のフィリピンはコンスタントに6%前後のGDP(国内総生産)成長率を誇っているからだ。特に先代のベニグノ・アキノ3世大統領のもと、フィリピンは東南アジア諸国のみならず世界において最も発展が著しい地域の1つに数えられていた。
実際、マニラの街中にはトヨタ自動車やホンダ製の車が所狭しと走っている。車が現地で安価なものでも1万ドル程度することを考慮すると、みなかなりの収入を得ているのではないかと錯覚してしまう。
また、私の友人の多くはアイフォーン(iPhone)を持っており、ネットではフェイスブックの投稿に余念がない。さらに、マクドナルドやケンタッキーフライドチキンといった欧米のファストフード店もよく見かける。
しかし、フィリピンの平均年収は3540ドル(2015年、以下同じ)程度であり、シンガポール (5万8210ドル)、マレーシア (1万570ドル)、タイ (5620ドル)に大きく水を開けられている。フィリピンの現在の平均年収を考えると、望むような生活を送っている者は国民のごく一部に過ぎないことが分かる。
例えばフィリピンの経済を牛耳っているのは華僑である。
その歴史は古く、1500年代にスペインがフィリピンを統治する以前から経済活動に関わってきたという。現在、フィリピンの長者番付10傑の半分以上が華僑であり、馴染み深いところではフィリピンで最大のファストフードチェーンであるジョリビーの経営者であるトニー・タン(Tony Tan)氏やフィリピン航空の経営者であるルシオ・タン(Lucio Tan)氏が挙げられる。
●下がらない貧困率、25%
加えて、フィリピンには米国や日本の企業が多数進出しているが、現地の優秀な人材から雇用されていく傾向がある。結果として、貧富の差は近年むしろ広がっている。
国が定めた貧困の基準(2014年時点においては年収2086ドル以下)に当てはまる国民の割合は、この10年間25%前後で変わっておらず、人口増加の影響を受けて絶対数としては増加傾向である。
2014年時点で、全人口1億人強の25.8%(約2600万人)が貧困状態にあると推測されている。また、ジニ指数は2013時点で43.0とASEAN(東南アジア諸国連合)の中でも高い水準にあり、中南米と同じレベルである。
確かに、一度マニラの街中を歩くと至る所にスラム街があるし、やせ衰えて身なりが整っていないような路上生活者も多い。ダイアンによると、そのような人々のことは、「誰も気にしない」のだという。
さらに深刻なのが地方の貧困であり、貧困層のおよそ4分の3が地方に居住している人々と推測されている。その理由として、これらの地域においては農業や漁業で生計を立てる世帯が多く、その生産性が長らく改善していないからである。
特にフィリピンでGeographically Isolated and Disadvantaged Areas (GIDA=未発展の孤立地域)と呼ばれる地域においては食事を確保することや最低限の医療を受けることもままならないという。
ダイアンは「以前の大統領は名家の出身だったり、裕福な方々が多かった。だから貧しい人たちの気持ちがわからなかったのかもしれない」と語っていた。
また、大統領と同じダバオ出身の別の友人は、会話の中で「今回の大統領候補の中で、彼が一番信頼できる政治家だった。私は彼に投票したことを後悔していない」とも言っていた。
リベラルな考え方を持っていると思っていたその友人からこのような言葉を聞いて非常に驚いたことを覚えている。彼らの発言には、経済発展にもかかわらずなくならない貧困や旧来の支配層に対する不満が垣間見える。
ではドゥテルテ大統領はどのようにしてフィリピンの貧困をなくしていくのだろうか。特に興味深いのが、彼がフィリピンにおいて常に議論の的となってきた避妊政策、産児制限を推進しようとしていることだ。
国民の約80% (2014年)がカトリックを信仰しているフィリピンにおいて堕胎は厳しく禁止されている。また、その方法を問わず避妊という行為自体が忌み嫌うものとして考えらえてきた。
しかし、フィリピンにおいて貧困が減少しない大きな理由として、避妊を嫌忌する文化や不十分な性教育を背景に産児制限が奏功しない風潮を挙げる向きは以前より根強い。
現在、フィリピン1世帯当たりの子供の数は平均で2.9人であり、日本や韓国(それぞれ世帯当たりの子供の数はそれぞれ1.4人、1.2人)、ヨーロッパ諸国と比較して高い水準にある。
●子だくさんの貧困層、世帯当たり5.2人
特に最貧困層における世帯当たりの子供の数は5.2人 (2013年)と非常に多い。一方で、最貧困層が教育に費やす支出は収入の0.6%と推測されているため、家族に金銭的な余裕がない場合、子供たちは早くして働き始めるしかないのである。
このようにして貧困な家庭で育った子供たちは教育の機会を逸し、良い職に就くことが難しく、貧困から脱出することが容易にはできないのである。
さらに、若年層の出産も問題になっている。ダイアンによると、つい先日も病院で13歳の女の子が出産するケースがあったという。相手も13歳の男の子であり、ともに学校に通っていなかった。
フィリピンにおいては15~19歳の女性の10分の1がすでに出産を経験しており、その割合はアジアで唯一上昇しているという。このような傾向も貧困を助長しているのだろう。
そこで、各世帯の子供を確実に3人以下に抑えて、教育や行政サービスをより十分に行き渡らせるというのがドゥテルテ大統領の提案である。
越えなければいけない壁も存在する。ドゥテルテ大統領の提案が実際に効力を発揮するには法律として成立することが不可欠である。その過程において、フィリピンで強い政治力をもつカトリック教会との対決を経る可能性が高い。
実際、フィリピンの避妊政策、産児制限政策は、カトリック教会との戦いだった。その歴史は古く、1960年代当時の大統領フェルディナンド・マルコス氏が、出生率、人口増加を抑制する政策を打ち出したことに遡る。
その後、1990年代の大統領フィデル・ラモス氏やジョセフ・エストラーダ氏も同様の政策を勧めるに当たってカトリック教会の対応に苦心した。
近年では、先代のアキノ大統領のリーダーシップのもとで「Reproductive Health Law=性と健康に関する法律)が2012年に成立した際、カトリック教会の強い反対にあってその発効が2014年までずれ込むという現象も起こった。
同法の主要なポイントは、コンドームをはじめとする様々な避妊法へのアクセスを改善するというものであったが、予算不足や避妊に対する根強い嫌忌感のために依然大きな効果をあげるには至っていない。
加えて、この法律は産児制限といった家族計画に踏み込んではいなかった。このような現状を背景に、今回ドゥテルテ大統領は産児制限にまで踏み込んだのだと思われる。
しかし、フィリピンにおいて政治家がカトリック教会の怒りを買うことは、国民の支持が離れる大きな理由となる。ドゥテルテの英断がどのような結末を迎えるか注視する必要がある。
このような現状を踏まえて医療者として私たちにできることがあるだろうか。
●公衆衛生への援助が必要
フィリピンにおいてはしっかりとした医療保険が整っていない。加えて医療行為を行うには現地の医師免許が必要である。そのため日本でも仕事を抱えている私たちが現地に赴いて医療行為を行うというのは非現実的かつ継続的でないだろう。
より実行可能性が高いのは、貧困をはじめとする公衆衛生の問題に現地の専門家と取り組んでいくことだ。そもそも今回フィリピンを訪問したのはフィリピン大学マニラ校の公衆衛生大学教室と共同研究の可能性を探るためだった。
フィリピンにおいては貧困のほかに交通渋滞に起因する空気汚染、上下水道の整備、生活習慣病などが大きな問題となっている。これらは日本においてもかつて問題となり官民一丸となって解決してきた課題である。
これらの分野に協力して取り組むことができれば現地の方々の助けになるかもしれない。加えて、草の根の交流が重要である。
私とフィリピンの縁は、昨年の夏にマニラで行なわれた学会でフィリピン大学マニラ校公衆衛生教室に所属する学生たちと仲良くなったことが始まりである。その後、フェイスブックやメールでやりとりを続けてきた。
彼らは日常語として英語を用いており、また研究に対するモチベーションも高い。今後小規模でも交流を続けることで将来的に現地の人々のためになるような仕事ができるのではと期待している。