医療ガバナンス学会 (2009年12月6日 06:00)
3. 憲法14条違反について
高裁判決は、健保法における保険外併用療養費制度について、法の目的、趣旨から保険を給付する医療に制限を設けることは財源の制約や医療の質確保という観点から合理的であるから、平等権を侵さないとしている。また私の受けたLAK治療は、旧特定療養費制度のもとで高度先進医療の承認を取り消された治療だから保険診療に保険給付が受けられないことは当然であり、平等権が侵されたとはいえないとしている。
私は保険の給付を受けられる医療と受けられない医療があることは了解している。またLAK治療が承認を取り消された保険外の医療であることも承知している。しかし、私は保険診療とLAK治療を併用した医療がすべて保険給付の停止を受けること、すなわち保険外併用療養費制度の国の解釈の違憲性を問題にしているのである。問題は合理的な目的や趣旨にそったとされる法規定の合憲性ではなく、目的を達成する手段としての保険外併用療養費制度の法解釈の違憲性である。らい予防法や国籍法と同様、法の目的や理由がどんなに正しく見えても、政策や手段を決定する法解釈が違憲であってはならない。私はそれこそが厳しく問われなければならないと考えるが、次に政策や手段を決定付けている保険外併用療養費規定の立法理由を検討する。
判決は、財源の制約や医療の質確保という理由が合理的だから、保険外併用療養費の規定を設けて保険給付の制限や停止を行うことは憲法の平等権を侵さないとしているが、それらの理由は錯誤であり、不当なものだからである。
(ア) まず財源の制約というが、私はLAKという保険外治療に保険を給付せよといっているのではない。それは全額自己負担で受ける。しかし、併用する、本来保険給付される保険治療には給付すべきだといっているのである。この保険治療はLAK治療を受けなくても必ず受けるものであり、それにかかる保険給付は全額自己負担よりは増えることになる。しかし、この増額を認めないのは本来給付すべきものを削って財源を確保することであり、不当である。その上、自由診療を併用する混合診療患者の頻度を考えれば、財源確保の効果は薄い。したがって保険外併用療養費制度で混合診療を禁止しているから、保険財政の悪化が防げるという理由は不当であり、的外れである。
(イ) また医療の質の確保だが、保険外医療が併用されると医療の全体の質が落ちるという考え方は、不可分一体論そのものである。それは一審で否定され、二審では触れられなかった争点である。二審は反対解釈論だけで本件控訴審を判断した。その反対解釈論は単に認められる例外を制限列挙しているから、それ以外は認められないという理屈であり、一審で否定された不可分一体論を反駁した後、これを容認したものではない。それなら保険外医療が保険医療と一体になって医療の質を落とすとはいえない。したがって、保険外医療を併用する混合診療は医療の質が落ちるという理屈を法解釈の合憲の理由に挙げることは不当といわざるを得ない。私は、この理屈の確たる証拠、この理屈を裏付ける事実の提示を何度も国に求めたが、結局なされなかった。
次に、虚構である不可分一体論に基づいて混合診療を禁止している政策が、医療の安全性の確保に効果を挙げられるかを検討する。
医療には保険診療と自由診療という保険外診療がある。そのうち保険診療は保険を承認する前提として安全性や有効性については専門機関で十分検証するが、自由診療は検証がまったくされず、いわば野放しである。自由診療が危険だから、それと保険診療との併用は認めないというのが国の理屈だが、それならなぜ危険な自由診療を国民の医療厚生に責任ある行政が放置するのか。すべての医療機関に保険指定を義務づけ、自由診療を禁ずるべきではないか。自由診療が存在する以上、誰でもそれを受けられるし、保険診療を受けている患者も他の日に他の病院で受けることは十分可能だからである。保険診療だけ安全性・有効性を検討して自由診療は知らん顔というのも医療の質の確保からは矛盾した話だが、それでも世間で自由診療の医療事故や薬害が多発しているということはない。むしろそのような医療被害は多く保険診療で発生しているのが事実である。
2006年発表の厚労省調査で、がん患者の医療費負担が年129万円、そのうち保険診療の自己負担分が70万円、民間療法やサプリメントなどの隠れ負担分が59万円という結果が出ている。いわゆる自由診療部分が相当使われていることは確かである。なぜ保険当局が野放しの自由診療で医療被害が多発しないかというと医師法や医療法や薬事法といった医療の安全性を担う法律があって、機能しているからである。また保険診療は効果も高く副作用も強いが、自由診療やサプリメントは効果も小さく副作用も弱いからである。それらを併用すると被害が発生するとはいえない。したがって、混合診療禁止という政策がなければ、医療の安全性の確保ができないという理屈は錯誤である。
そもそも混合診療禁止を定めたとされる健康保険法というのは、本質的には患者が医療を安価に受けられるための経済的支援法である。経済的支援法で安全性や有効性を確保しようという発想が誤っているのである。医療の安全性・有効性と保険は本来別問題である。健保法で自由診療を含むすべての医療の安全性、有効性が守れると考えるのは錯誤である。ところが国は、健保法ではなく医師法、医療法、薬事法の規制により被害の少ない自由診療にもかかわらず、それと保険診療を併用する混合診療に対して、保険診療の安全性と有効性の確保という理由から、健康保険法には明文規定はなくとも保険外併用療養費の反対解釈によって混合診療を禁止するという趣旨を持つという。しかしこれは、理由があれば明文規定は要らないという暴論であると同時に、健保法が混合診療禁止の趣旨を持つから、保険診療の安全性が担保されるという錯誤でもある。
錯誤の内容を、保険診療は安全だが、自由診療は危険なものが多いという前提と、それほど危険ではないという前提で検証してみる。まず危険なものが多いという前提に立つ。一般に保険診療だけでは良くならない難病・重病患者が自由診療に走ることは避けられない。患者は危険にさらされる可能性が高いとみなされる。ところが、混合診療が解禁になって保険医療機関でも自由診療が併用できるようになると、保険医療機関は当然、患者の治療に影響の少ない自由診療を慎重に選んで行うようになる。患者もまた危険度の高い自由診療機関より保険医療機関に行く。これは混合診療が解禁されると医療の安全性が高まるという効果であり、国が混合診療禁止で安全性が担保されるというのは錯誤である。
次に、自由診療がそれほど危険ではないという前提に立つ。日本でまだ保険承認されていなくとも先進国では安全性・有効性の高いと認められた治療や医薬品は多い。抗がん剤の約4割がそうである。しかし日本では健保法による承認が金科玉条であるため、保険医療機関は保険外診療が一切禁じられている。たとえば、あるがん種に有効で安全な抗がん剤が違うがん種への使用を認められていないために使えないという適応外使用が生じている。先進国では10年も前に認められているのに日本ではさまざまな理由で認められていないというドラッグラグの問題である。がん患者は鉄壁の安全性より命だけは助かる有効な薬を求めている。自由診療がそれほど危険でなければ、混合診療禁止で安全性を担保するのも意味がないので、これも錯誤である。しかもこの錯誤は、患者の命を危険にさらすという副作用を持っている。実はこちらの方が現実に近い。
以上どちらの前提でも、混合診療禁止という政策と安全性が担保され、医療の質が確保されるという効果には関連性が薄い。
(ウ) また混合診療禁止政策の目的や理由という点で、必ず挙げられるのが医療受療の公平性、平等性の確保といわれるものである。それは国民皆保険制度のもと国民は等しく公平に医療を受けなければならないというものである。すなわち国民皆保険で認められた保険診療だけしか受けてはならないのである。
ではなぜ自由診療は存在するのか。それは誰でもいつでも受けられる。国が自由診療の存在を許しておいて、それを受けてはならないとするのは、政策の矛盾ではないか。公平性、平等性の確保もある程度は重要であるが、がんなどの難病では保険治療だけでは難しく、患者は日本では保険承認されていなくても世界で認められたものも多い先進治療や医薬品を受けたいのは当然の願いである。しかし保険診療を少しでもハミ出てはならないという平等性を厳格に運用するこの政策では、そういう不平等を許せば自由診療を受けられる金持ちだけが助かることになるというのである。
ではこの政策は合理的といえるだろうか。本当の金持ちは保険など使わなくてもすべて自己負担であらゆる医療を受けられる。預金や民間保険等で少しは病気の準備をした中産階級は先進治療や医薬品などの自由診療はなんとか自己負担できるが、保険診療まで自己負担になれば先進的治療をあきらめざるを得ない。一方で、保険診療だけしか受けられない経済事情の人もいる。混合診療を禁止して平等性を確保するという政策は、自由診療の存在を許していながら、経済的弱者のために本当の金持ちと中産階級の存在を認めないという趣旨である。しかし本当の金持ちは政策にかかわらず存在できる。したがって、中産階級だけが存在できない。差額ベッド等選定療養ですでに経済的弱者との不平等が発生しているこの政策の考え方は矛盾している上に、不合理である。
私の提訴は、混合診療で保険受給権の不平等な扱いを受け、命を救う治療ができない中産階級の抗議である。医療の平等性を確保するという政策が保険受給権の剥奪という手段をとったことから、看過できない不平等が生じたために起こされた提訴である。
以上述べたように、混合診療禁止の政策については、財源の制約や医療の質の確保という理由は錯誤であり、不当である。受療の平等性を確保するためと国のいう理由も同様である。結局、これらの理由から取られた混合診療禁止の政策手段は不合理で不当なものであり、政策手段の基礎となっている健保法の解釈、すなわち混合診療禁止規定によって保険受給権が制限・剥奪されるという国の解釈が憲法の平等権を侵していることは明らかである。
なぜならそれは、正しく保険料を義務として納めているにもかかわらず、一つでも保険外医療を受けたために一切の保険を給付されない被保険者を保険医療だけを受けて全的に保険給付される被保険者と比較して、なんら合理的理由なく不当に差別的に取り扱う規定であり、そのため個人の生命と健康に毀損をもたらすような看過できない不平等が生じるからである。健康保険という公的保険の給付を停止されることは、保険診療という公的医療を拒否されるということである。したがって、そのような内容の定めを設けた保険外併用療養費制度は、憲法14条に違反している。「全的に」と強調したのは、保険診療分の給付を受けられれば、たとえ50万円の治療でも患者の負担は3割の15万円ではなく還付金制度により実質4万円強ですみ、全額自費になる差別された患者との乖離が著しく大きいからである。
また二審判決では、保険給付の法的取扱いに区別を設けることは合理性があり、違憲ではないとしているが、ある医療を財源についても医療の質についても問題ないとしていったん保険収載し、その医療を単独で受ける場合は常に保険対象としながら、保険外診療との併用の場合だけは財源や医療の質が悪化するという理由によって保険対象から外すということは、保険診療を恣意的に区別し限定することであり、平等を標榜する国民皆保険の原則からも許されない。
4. 憲法25条違反について
私にとって本件における憲法25条の問題は、「健康で文化的な最低限度の生活」の保障というようなものではなく、生命が維持できるかという正に生存権そのものの問題である。そして多くの保険治療に手が尽きた患者、保険治療だけでは命の危ない患者にとっては、日本では保険外だが世界では認められた治療ができるか、保険医が治療できるようになるか固唾を呑んで見守っている問題である。
この問題に対し、国や二審判決は次のように述べている。私の受けたLAK治療については、当初は高度先進医療として認められていたが、有効性の観点から外され、別の免疫療法が認められているから、生存権侵害をいう理由がないと主張し、判決もこれを追認している。また同時に国は、安全性や有効性の確認できない特殊な療法を国民の税負担で賄う合理的理由はなく、それは併用される保険診療について保険給付を止めることで、特殊な療法を保険で賄わないとする健保法の趣旨にかなうことになるから政策合理性があり、違憲ではないと主張し、判決も立法に合理性がある、裁量範囲であると追認している。
私は平成13年がんが頭骨と頚骨に転移し、LAKとインターフェロンくらいしか治療はないといわれ、その併用治療を選んだのである。その当時、LAKは高度先進医療として保険診療との併用が認められていたが、がんセンターは特定療養費制度の実施資格を欠いていた。制度違反ではあったが、私は結果としてがんの進行が止まり、延命できた。その後、LAKは先進医療から外され、特殊な療法となったが、現在も自由医療機関で受けることはできる。私の場合、LAKは安全性、有効性の確認できない特殊な療法ではなかった。また別の活性化リンパ球移入療法が評価療養として認められているというが、担当医によると私に適合するか否かはLAKほど明確ではない。
私は、提訴の最初から、特殊療法に保険や税金を使えといっているのではない。それは全額自費で賄う。しかし、併用する保険診療の保険受給権を奪われるのは不合理だといっているのである。国が特殊療法の存在は許しておきながら、それを使ってはならない、使うなら国民の税金、保険料の不当な使用になるから保険診療も自由診療化するという理屈がまったく納得できない。特殊療法を併用すると保険診療も特殊療法と同じ認められない医療になるという理屈は、一審で否定され、二審でも触れられず、反論できなかった不可分一体論が下敷きとなっている。それだけが国の混合診療禁止論の根拠である。認められたもの以外の保険外診療を併用したら当の保険外診療ではなく併用する保険診療部分の保険給付を止めるという保険外併用療養費制度の反対解釈論も、不可分一体論を根拠としなければ成り立たないのである。したがって、不可分一体論が否定されたままでは、特殊療法を併用する保険診療に保険給付をしても特殊療法に国民の税金を使うことにはならないのである。
国および判決は、不可分一体論を根拠とする保険外併用療養費制度に基づく混合診療禁止の政策には医療の安全性や公平性といった合理性があるから違憲ではないと主張するが、私が訴えているのは仮に一つの政策合理性があっても、その政策手段により保険料を払った正当な被保険者が保険診療を受けても保険を給付されず、保険診療という公的医療受療の社会保障から締め出され、命の危険にさらされるのは、基本的人権である生存権の侵害に他ならないということである。
保険診療という公的医療の受給権は、医療権という概念で表せるものである。教育権が、「国民が教育を受ける権利」と同時に「教師が良心に基づいて教育をする権利」の両義性を持つように、医療権は、「患者が医療を受ける権利」と「医師が良心に基づいて医療行為をする権利」を表す。医療権は憲法25条の生存権を根拠とするので、保険受給権剥奪は公的医療剥奪であり、それは医療権の侵害から憲法25条違反となるのである。
国はそもそも健保法が保険外診療を受ける権利を保障したものではないと述べている。健保法は保険診療について定めた法律だから、それは当然である。むしろ法は保険外診療については、保障しないというよりは関知しないというべきである。しかし、保険外診療を受ける権利は患者にはある。そうでなければこの世に保険外診療など存在しないはずである。患者が、自分の望む保険外診療を受ける権利は、憲法25条で保障されているというべきであり、保険外診療を受ける権利が憲法25条で保障されていると解することができないという国の主張は失当というだけでなく、厚生行政に責任ある政府として許容できぬ欠陥である。
国の見解にもかかわらず、希望する必要な保険外医療を受ける権利が患者にはそなわっているといえるのだが、それを受けた瞬間に本来保険給付を受けられるべき併用している保険診療までが全額自己負担になることで、治療効果を期待できる医療の可能性の芽を摘まれ、希望する医療を断念せざるを得なくなるのである。国民の3人に1人ががんで亡くなる現状には、必要な切望する治療を選べず、受けられずに死を待つ患者の惨状がある。現行の法制度が重病・難病患者に強いているこの理不尽で非人道な状態は、健康で文化的な最低限度の生活というよりさらに基本的である生存そのものを保障した憲法25条を侵すものといわざるを得ない。これは二審判決が判示した合理的な立法の裁量範囲というようなものではない。重病・難病患者を生かすも殺すも立法の裁量範囲というような考え方が、民主主義の法治国家で許されるはずはないのである。