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Vol.137 日本国憲法と病人権利 -第5回医療制度研究会草津セミナー感想文―

医療ガバナンス学会 (2017年6月29日 06:00)


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医療制度研究会
中澤堅次

2017年6月29日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

病人権利というと、多くの医師は医師の裁量権が侵されると考える。しかし、この権利はいまや世界的な標準であり、我が国でも医療トラブルの解決は、この権利に照らして判断される現実がある。医療を含む専門性の高い領域では、問題の多くは一般の人が気づかない水面下に存在し、それが事故や、不幸な結果になったときに表面化し、改めて人権の視点で問われるという形をとる。ハンセン病、水俣病、AIDS、医療事故、原発事故などはその例である。

病人権利は、第二次大戦中ナチス政府の命令で、医師たちが捕虜の人体実験を行った反省から生まれたように、医師は役割の中で人権侵害を起こしやすいことは、歴史や経験での裏付けがある。医師は基本的人権という大きな流れの中にあって、専門性をもって普段からこの権利を意識しなければならない。不幸なことだが、若い医師達はこの落とし穴の存在を知らされることなく医師になる。これは医学教育の問題である。

ハンセン病の予防政策において日本は、強制隔離をつい最近の平成10年まで継続し、世界の国々から驚きの目をもって迎えられた。病気の治療法が確立し、隔離の意味がなくなった後も、国家の利益を病人の権利に優先し、罹患者の基本的人権を侵したからである。

今、憲法改正論議の中で、基本的人権に関する条文の改正が問題になっている。基本的人権は、戦前の日本ではありえなかった国民の権利であり、敗戦という貴重な体験を通して初めて日本国憲法が保障したものである。自由民主党憲法改正草案は、これを改め公益と公共の利益を基本的人権より優先させ、戦争の過ちを通じて得た教訓を、再びもとにもどす意図を示している。第6回草津セミナーは、ハンセン病政策と基本的人権について理解を深めるために企画した。以下はその議論を踏まえた感想文である。

ハンセン病は、らい菌の感染により皮膚と神経が侵される病気で、それだけでは致命的にはならないが、有効な治療法がなかった当時は不治の病とされ、見た目の悲惨さから病人は社会的な偏見にもさらされ世界中で問題となっていた。

明治42年、時の政府は「癩予防に関する件」を制定し、公立療養所を設置し一部の罹患者を収容していたが、昭和6年「癩予防法」を制定し、すべての罹患者を強制的に隔離する目的で、離島や山間部に国立療養所を設置し、同時に政府主導で「無らい県運動」を展開した。

社会から病気を根絶させるための隔離は、罹患者が収容中に死を迎えることを想定しており、園内には納骨堂を設備し、病人の逃亡を防ぐため、園内の郵便局で手紙を検閲し、紙幣の所持を禁じ、園内の販売所では特別の金券が使われた。療養者の生活を維持するには莫大な費用がかかり、諸外国ではめったに隔離を行わないが、日本では収容中の病人に可能な限りの労働を課し、費用を節減した。また療養者間の婚姻を認める代わりに、男性には断種を、妊娠した女性には堕胎を強制し、摘出した胎児は標本として各療養所に保管した。(1)

療養所における治療は当時の水準で行われたが、療養所以外での治療は禁じられた。診療は病気の治癒を目的としたのではなく、地域から病人を隔離することに重きを置いたと考えられる。

このような厳格な規制下にあって、療養者の不満は蓄積し問題が絶えなかった。これに対し国は、園内において裁判や懲戒ができる法律を作り、1916年には療養所園長に懲戒検束権を与え収容者への監視を強化した。大戦が迫る1938年には、冬季は厳寒の地となる栗生楽泉園に特別病棟と称する重監房(独房)を設置し、規則に抵抗し悪質とされた療養者が、全国から集められ監禁された(1938~1947年)。
暖房設備のない独房での監禁は病人には過酷で、収容された合計93人の療養者のうち、23人は監禁中か解放直後に死亡しており、それも冬季に集中している。監禁期間は法的には1~2か月とされていたが、100~200日を超えた人もいる。現在では栗生楽泉園に国立重監房資料館があり、当時の姿が一部再現され記録映像も見られる。この施設は療養者の希望を実現するため、市民の署名活動が行われ国を動かす結果となった。(2)

1945年終戦を迎え、特効薬プロミンが使用可能となり、感染力の低さから隔離の必要性が無くなり、療養者による隔離廃止運動も起きたが、1953年(昭和28年)に行われた「らい予防法」制定(癩予防法の改定)では、国会証言で三人の療養所園長が隔離の必要性を主張し継続が決定した。それから40年間、日本中がネット社会に移行しつつあった1996年(平成8年)の廃止まで強制隔離は続いた。療養者は1998年(平成10年)違憲国家賠償請求訴訟を起こし、2001年(平成13年)に違憲判決が下り、国は控訴せずに決着するという経過をたどった。(3)

医師の関わりは、光田健輔が無らい県運動と、強制隔離に積極的にかかわり、戦後8年目の1953年に行われた予防法改正では、三園長証言の中心的な役割を果たした。これに先立つ1951年、らい研究と予防に関する貢献で文化勲章を受章している。彼に対する評価は両極端で、誹謗する人も多いが、長嶋愛生園では熱烈な尊敬を受けたともいわれる。

小笠原登は、京都帝国大学皮膚科助教授時代、ハンセン病は感染力が弱く、発病は特定体質のものに限られることを重視し、当時の隔離政策を批判した論文を発表したが、皮膚科学会の医師たちがこの議論を否定し、日の目を見なかった。(4)

1996年らい予防法廃止に至る過程には、元厚生労働省技官大谷藤郎の功績が大きい。彼は1972年(昭和42年)国立ハンセン病療養所課長に就任し、1983年医務局長で退官、その後らい予防法廃止に大きく貢献した。(5)

治療法が確立し問題が解決した後で見ると、医師が行ったことは、病苦に苦しむ病人に、効果のない治療を行い、規則に従わなければ、公正な裁判なしに監禁や処罰を行い、生命も奪ったというストーリーになる。しかし、医療は科学とはいえ正確な根拠が得にくく、結果を完全に予想して行動を起こすことはあり得ない。不確実な環境下にあっても、医師は人の生命に関わる役割を避けることは出来ず、過ちを最小限にとどめるためにも、病人の基本的人権は絶えず意識しなければ、罪を許されることはない。

憲法13条は、すべて国民は、個人として尊重され、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利は、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大限の尊重を必要とするとあり、公共の福祉に関連して医師は国民の人権を最大限尊重する立場にある。
しかし、自民党憲法改正草案では「公共の福祉」という文言を、「公益と公の秩序」に変更し、政治情勢で変化する公益と公の秩序を、人類普遍の基本的人権の上に置いている。この案が通れば、ハンセン病の強制隔離も公益ゆえに違憲ではなくなると言っているようである。また草案では、日本国憲法が最高法規として基本的人権を述べた第97条をまるごと削除し、基本的人権に対する認識を違える意志を示している。病を得た国民にとって、また病人の権利を擁護する立場にある医師にとって、草案が求める憲法改正は、最悪の事態を再現する可能性があることを危惧する。

参考文献:
(1)(2)宮坂道夫:「日本のハンセン病政策と患者の権利」第6回医療制度研究会草津セミナー基調講演抄録https://goo.gl/O6d09w 2017.4.16.
(3)厚生労働省ハンセン病に関する情報ページ:

http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/hansen/

(4)小笠原登:「らいに関する三つの迷信」診断と治療18巻11号1931.
(5)大谷藤郎:「らい予防法廃止の歴史-愛は打ち克ち城壁崩れ陥ちぬ」 勁草書房、1996.

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