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臨時 vol 418 「超低出生体重児の育児」

医療ガバナンス学会 (2009年12月30日 11:00)


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私が必要なのは、心の専門家ではありません
鈴井直子
2009年12月30日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

●はじめに

はじめまして。私は超低出生体重児で生まれた男の子の母親です。今回、投稿させていただいたのは、皆様に、小さく生まれた子供の教育と福祉の問題を知っていただきたいからです。これは、NICUを退院した子供の親が抱える問題の中でも、切実な問題です。残念ながら、マスメディアが伝えるのは、小さく生まれた赤ちゃんが救命され、NICUを退院するまでです。その後、どのように育つのか、どのような困難が待ち受けているかは、あまり報道されません。

今、私自身も、息子が義務教育過程に進んだことで、新たな問題に直面しております。これを機会に、多くの方に関心を持っていただき、お力を措かしいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします

●出産から幼稚園時代までのこと
【 NICUを退院するまで】
息子は2002年、妊娠24週と4日、814gで生まれました。早産の原因は、前置胎盤による出血により、妊娠の継続が困難になったことです。息子には、未熟児網膜症など、いくつもの問題がありましたが,4ヶ月のNICU滞在の後、なんとか退院となりました。ちょうど出産予定日の一月ほど後になりました。退院後は、きちんと育っているか、外来で定期的に診ていただきました。

【二度の救急搬送】
しかし、その後の育児は想像以上に辛いものでした。特に、1歳までは大変で、二度、救急搬送をお願いしました。

一度目は、生後10ヶ月の時でした。風邪から、状態が一気に悪化し、ミルクの誤嚥で呼吸が一時停止しました。顔がみるみる真っ白になり、死を覚悟しました。小さく生まれた子供は、肺が未熟な状態で生まれるため、呼吸器が不全です。今思うと、あの時よく無事に乗り越えられたとほっといたします。

二度目は、一度目の救急搬送からわずか1ヶ月後、胆道結石で激しい腹痛を訴えた時でした。急に笑顔が消え、体を折り曲げるように苦しみ始めました。突然の出来事で、気が動転してしまいました。国立成育医療センターに搬送していただきましたが、最初は原因が分かりませんでした。10人ほどの先生方が集まり、長い時間原因を探っていらっしゃいました。その間にも、症状は悪化する一方で、私は生きた心地がしませんでした。ようやく、胆管に結石が見つかったのは、搬送されてから5、6時間後のことでした。胆管を拡張させる薬を投与していただくと、次の朝には石がなくなっていました。

思い返してみますと、生後6ヶ月ぐらいから、夜泣きが激しくなり、私は何かがおかしいと常に感じていました。ちょうど、保健師さんが自宅を訪問して下さったので、相談しましたが、超低出生体重児に関する知識はないとのことでした。発作の直前には、夜間でも、まとまって15分しか眠らなくなり、私自身も精神的に限界に近くなっていました。結石があったことが分かったこと、そして、それが無くなったことで、気持ちが少し楽になりました。しかし、外科の先生の説明では、胆管拡張症の疑いがあるということで、現在も観察を続けています。

この2回の入院中にうれしかったのは、NICUで担当していただいた新生児科の先生が心配して様子を見に来て下さったことです。お忙しいなかにもかかわらず、来ていただき、お話ができたことで、とても安心いたしました。

【幼児期のこと】
その後も次から次へと病気にかかり、不安な日々が続きました。かかりつけ医を探そうとしても、小さく生まれた子供を理解して下さる先生はなかなかいらっしゃいません。今、お世話になっている開業医の先生を探すまで、2年近くかかりました。この先生には、何度も通院しなくてもいいように、薬を多めに処方していただいたり、成長に関する相談をさせていただいたりしております。また、息子と同じ症状であれば、私の薬も処方して下さるので、大変助かっております。

一方、継続して診ていただいた発育発達検診では、毎回、3ヶ月から半年程度の遅れを指摘されました。しかし、療育施設の教育のような、福祉がカバーできる子供は限られています。発達が遅れているからといって、私たちには特別なことができるわけではなく、成長を見守るしかありません。同時に、子供を小さく生んでしまったという責任と将来の不安で、心が押しつぶされそうでした。特に、子供がどう成長していくかについては良い情報が少なく、発育遅滞や発達障害ばかり気にすることになりました。
【集団保育が始まるまでのこと】
小さく生まれた子供の母親にとって、大きなハードルは、集団保育です。私は、体が弱く、発達の遅れている息子のことを考えた時、できるだけ幼稚園がいいと思いました。

しかし、私の住んでいる東京郊外の市は、幼稚園の数が少ないうえ、大規模マンションが建設されることになり、希望するところに入れるのか、母親達の間で大きな話題になるほどでした。入園できるかできないかは、子供の発達が大きく影響します。どの園も人手不足で、ふつうの子供よりも手のかかる子の受け入れは難しいからです。
【幼稚園時代のこと】
幸いにも、私が希望した幼稚園は、発達の遅れていた息子のことを理解し、温かく迎えて下さいました。園の先生方には、大変感謝をしております。

慣れない集団生活と、もとからの呼吸器の弱さで、入園当初は、何度も体調を崩しました。風邪がはやると、誰よりも早くひくことになりました。言葉を話すのも遅かったため、同年代の子供の輪になかなか入れませんでした。

幼稚園に馴染んだのは、年中になってからでした。私は、集団生活に慣れてきたのをきっかけに、思い切って、発育発達検診へ行くのをやめました。体を大きく丈夫にすることを第一に考える私の方針と、問題点ばかりを指摘する担当医師の方針には、隔たりがあったからです。

年長の終わりには、体の成長が一気に追いつき、成長曲線の真ん中に入りました。それを境に、病気になる回数も減り、性格が明るくなりました。初めての友達もできました。一方で、手先の不器用さ、運動能力、読み書きなどには、若干の遅れがありました。

●小学校での様子 今抱えている問題

今年4月、息子は、公立小学校に入学しました。毎日元気に登校しておりますが、やはり、授業を理解するのに時間がかかるようです。ただ、その遅れは、毎日根気強く復習を繰り返せば、追いつく程度のものです。

今、直面している問題は、この遅れを今後どうすればいいかということです。特に困るのは、算数の授業です。数の概念が十分に身についておらず、一桁の計算がまだ完全ではありません。それに加え、日本語の理解不足から、言葉で説明している問題の意味が、よくわからない時があります。一年生の算数は、これからの土台を作る大切な基礎です。先のことを考えると、無理に計算を暗記させることには抵抗を感じていますので、何とか理解させようと苦しんでおります。

だからと言って、私は学校に特別な指導をお願いすることには、ためらいがあります。きめ細やかな指導を期待するには、教員の数が不足しているからです。むしろ、公立の学校では限られた予算と人員で一生懸命がんばっておられると思います。

●母親が追い詰められていく理由

今まで息子を育ててきて、わかったことがあります。それは、日本の教育現場が、小さく生まれた子供達を想定しては、整備されていないということです。息子のように、発達の遅れがわずかな場合には、公的支援はありません。それは義務教育過程でも同じです。特別な指導や、カリキュラムが用意されているわけではありません。

子供の発達には個人差がありますが、小さく生まれた子供の発達は独特です。的確なタイミングを見つけ、的確な刺激を与えなければ、伸びないような気がします。私は、息子から待つことも大切な教育だと教えられました。しかし、義務教育過程で、その姿勢を貫けば、親のエゴになるかもしれません。現在通っている公立小学校では「ゆとり教育」が終わり、その反動からか、一年生でもかなりの宿題が出ます。その宿題を理解させながら見てあげようとすると、2時間近くかかることがあります。これは今やるべきことではないかも知れません。息子には、太陽の下で思いっきり遊ぶことの方が、大切なような気がします。

こうした毎日の小さな葛藤に対して明確な答えはなく、そのことが母親を次第に孤立させていきます。小さく生まれたり、障害を抱えた子供は、母親から虐待を受けたり、心中が起こりやすいと言われていますが、その気持ちはよく分かります。本当は親が、いっぱいいっぱいになってしまうのです。怒ってはいけないと思いながらも、何でそんなことが分からないのと怒っている自分がいます。先日、息子もどうしていいかわからず、「僕は本当は勉強ができるんだ」と泣き出しました

●「将来への不安」とは、「心の問題」なのか

繰り返される悲劇を防止するために、国は対策を立てました。その一つが、精神科医、臨床心理士、カウンセラーなどの心の専門家による、「母親の心のケア」です。近年、導入する医療機関や地方自治体が増えました。

私も実際に、育児心理が専門の精神科医のケアを受けました。しかし、そこで行われたことは、おざなりのカウンセリングと投薬でした。薬への依存と心ない言葉に私は傷つきました。必要なことは、心を開いて話し会える関係と、正しい情報です。心の専門家と称する精神科医の介入は、「母親の感情」に対する対処療法に問題をすり替え、必要な人と人とのつながりを断ち切ってしまいます。これでは、いつまでたってもサポートするシステムは築けません。我が子を殺めた母親が必ず口にする「将来への不安」はなくなりません。

●教育の現場に救いの手を 福祉の充実を

息子がNICUを退院した日は雪がちらつく寒い日でした。喜びよりも不安が押し寄せました。これから私たちだけで、どう育てていったらいいのかわかりませんでした。そんな時に、偶然、40代前半の母親が赤ちゃんと一緒に、踏切に飛び込みだという事件を知りました。その赤ちゃんには、重い心臓病があったそうです。私は、死を選んだ母親の姿が自分と重なり、怖くなりました。これから続く道が、平坦でないことは、容易に想像できたからです。

あれから7年が経ちました。全力で駆け抜けた7年でした。私は、小さく生まれた子供の母となり、この世には、個人で解決できない困難があるということを、知りました。

今年もまた、何人かの母親が殺人犯となり、何人かの母親が子供と心中していきました。日本は、人が死なないと変わらないと言いますが、あと何人の母子が死んでいったら変わるのでしょうか。母子の命は、周産期医療の充実だけでは、つながりません。NICUを退院できても、療育施設はどこも一杯です。ケアを必要としている人はそれ以上いることでしょう。また、療育後を引き継ぐ、教育や福祉は受け入れる余裕がありません。医療の現場とともに教育や福祉の現場にも、救いの手を差し伸べてはいただけないでしょうか。受け入れる社会の温かさも、もっと必要です。

●病気や障害と共に生きる社会

私は、街で車いすを見かけると、いつも思い出す光景があります。それは、以前、夫の仕事の関係で、一年間ですが、暮らしていたカナダのトロントのことです。そこでは障害や病気を抱えた人達がいきいきと働いていました。自宅はオフィス街にありましたが、スーツ姿のビジネスマンが、車いすの人のために、ごく自然にドアを押さえる姿も印象的でした。彼らを見て、本当のバリアフリーとは、人の心の中にあるバリアを取り除くことだと思いました。このような環境で子供達が育てば、差別や偏見を持たず、困っている人には手を差し伸べるという気持ちが、自ずと芽生えるでしょう。

今、私が救おうとしているのは、7年前の自分自身です。私は、生まれてくる我が子が、障害を抱えるかもしれないと知った時、カナダへの移住を本気で考えました。私にとっては、日本よりも、カナダの方が優しい国に見えたのです。母親を勇気づけるのは、病気や障害を抱えた方と共に生きる社会です。どうか、命をつなげるために、お力をお貸し下さい。

お読みいただいた皆様に、願いが届くと信じ、お願い申し上げます。

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