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vol 9 情報科学と医療・公衆衛生(1)

医療ガバナンス学会 (2010年1月13日 09:00)


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東京大学医科学研究所
先端医療社会コミュニケーションシステム社会連携研究部門
中田 はる佳
2010年1月13日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


1. はじめに
2010年1月7日、読売新聞夕刊一面にこんな記事が出た。「空港検疫すり抜け9割…新型インフル感染者」。2009年、新型インフルエンザパニックが起こったことは記憶に新しい。医療現場の混乱をはじめ、経済や市民生活にも影響が生じた。この記事のもとになった論文作成に関わった者として、本論文完成までの経緯とその意義について二回にわたって述べたい(発表論文はこちら→)。

本研究のきっかけになったのは、新型インフルエンザ対策として行われていた空港検疫についての議論であった。成田空港検疫所の報告書によれば、4月25日から新型インフルエンザ対策としてサーモグラフィによる体温検査や、健康状態質問票・調査票の配布、簡易キットによる検査等を行った。この空港検疫には多くの人的・物的資源が投じられた。成田空港に限ってみると、例えば、簡易検査キットについては、4月25日から6月18日までの間に805件行われ(うち新型インフルエンザ陽性10件)、検疫官については、通常1日約90人体制のところ最大で1日250人以上の検疫官が費やされた。
しかし、実際に国内初の感染者は検疫によって発見されたものではなく、渡航歴がない者であった。検疫の有用性については賛否両論であり、国会の場でも議論がなされていた。空港検疫についてはSARSパンデミック時に行われたものについて検証された論文が発表されている(一例として”Border Screening for SARS (2005)” )。新型インフルエンザについての空港検疫の検証は行われていなかったため、それを行うべきではないかということが本研究のきっかけとなった。そこで、さらに研究の進め方について検討した結果、単に検疫の結果を検証するだけでは従来の研究と比較して新規性がなく、また新型インフルエンザパンデミック対策のための有用な提案につながらないため、検疫という国レベルの対策と学校閉鎖その他の地域レベルの対策とを組み合わせて有用な介入の方針を提案するという方向で進めることとなった。

2.論文概要
(1)まず、今回行われた成田空港検疫の検証を行った。潜伏期間、感染力、空港で行われた簡易キットの見逃し率などのデータを利用して、どの程度の検疫のすり抜けがあったか、つまり、国内に流入した感染者数の推定を行った。感染者数の推定は、インフルエンザ潜伏期間のモデル化やフライト中の発症確率の推定など統計科学的な手法を用いて行った。
次に、感染症拡大のモデルであるSEIRモデルを拡張して新しい感染拡大モデルを構築した(SEIRixモデル)。従来のSEIRモデルでは単位集団は固定されていたが、本モデルでは単位集団に対する外部からの人口流入を反映できるようになり、より現実世界に近い集団で感染拡大のシミュレーションができるようになった。また、従来のSEIRモデルでは感染拡大を観察的に予測するにとどまっていたところ、本モデルでは何らかの介入をした場合につき感染者数の変動が予測できるようになった。つまり、介入によって感染者数のピークがどのように変動するかが予測できるようになったのである。新型インフルエンザ対策の目的は、治療体制を整備して死者を出さないことであり、感染者数のピークを下げ、またピークを遅らせることが求められる。したがって、介入に対するピーク変動を予測することの意義は大きい。さらに、介入の開始時期、強度、介入期間を場合分けすることにより、各介入にかかるコストの見積もりも行った。
(2)上記の方法により、以下の結果が得られた。まず、4月25日から6月18日までの期間において検疫によって8人の感染者が確認されたが、実際には約14倍の感染者が入国していたと推定された。そして、推定感染者数を元にSEIRixモデルによる感染拡大のシミュレーションを行った結果、感染者数のピークを下げ、その時期を遅らせるには、早すぎる介入は必ずしも効果的ではないことがわかった。また、介入の種類により必要なリソースの量が異なることも数値として示された。
(3)以上の結果から、新たな考察が得られた。まず、空港検疫については、新型インフルエンザのような潜伏期間が比較的長い感染症の流入を防ぐという「防衛機能」は望めない。このことは先行研究からも支持される。しかし、検疫により発見された感染者数から入国した感染者数を推定し、さらに感染拡大シミュレーションを行うためのデータ収集の手段、すなわち国内流入感染者数の「モニタリング機能」を付与することができる。この機能を利用して感染拡大シミュレーションを行い、期待できる介入効果や介入に必要なリソース、経済や社会に与える影響などの要素を考慮した上で、最適な介入時期を科学的予測に基づき決定することが可能であることが示された。

3. 本研究の意義―新たなコラボレーション
本研究の大きな意義のひとつは、新しい学問分野と医療・公衆衛生政策分野が結び付いたことである。論文共著者の専門を見てみると、情報科学、バイオインフォマティクス、臨床疫学、医療政策、法学など多岐にわたっている。特に今回は情報科学、統計科学の手法を用いてデータ分析、シミュレーションを行い、それを医療・公衆衛生政策の観点から考察した点に大きな意義がある。
情報科学や統計科学と医療・公衆衛生政策とは一見結び付きにくそうであるが、どこに接点があったのか。本研究では「科学的予測」が研究をひとつにまとめるキーワードであったと考える。例えば、今回題材として用いた空港検疫についてみると、空港検疫の有用性に疑問が呈された後も科学的な議論は不十分であったようである。結局、空港検疫は1カ月以上続けられ、空港で足止めされたり隔離・停留される人が出るなど市民生活に大きな影響を及ぼした。また、より身近な対策として学校閉鎖(あるいは学級閉鎖)に関していえば、閉鎖の基準や閉鎖期間が日々変化し、また地域によっても大きく異なっていた。学校閉鎖のタイミングや長さによっては、普段働いている親が仕事を休んで調整したり、学校周辺の店舗に経済的影響が生じるなど様々な影響が生じた。このような混乱の一因となったのは、様々な対策が科学的予測に裏打ちされていなかったことである。国民生活への介入は可能な限り避けるべきであるし、行うとすれば最小限度に抑えなければならない。過度な介入は国民の人権侵害につながりかねない。その観点からも、国の政策・対策は適切に行われなければならない。政策・対策の妥当性・正当性の根拠の一つとして科学的予測に基づくものであることが挙げられるのではないだろうか。本論文で私たちが提示している”evidence-based public health policy making”という視点は非常に重要なものである。

本研究の主眼は検疫の効果を検証することではない。国の政策立案のための新たな手段を提供することが主目的である。本研究において情報科学、統計科学の手法は極めて重要な役割を果たした。次回は、医療・公衆衛生分野と情報科学、統計科学のコラボレーションの今後の可能性について検討することとしたい。

【参考文献】
「成田空港検疫所における新型インフルエンザ対応報告書」

MRIC Global

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