医療ガバナンス学会 (2018年8月22日 06:00)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/53776
この原稿はJBPRESS(8月10日配信)からの転載です。
坂本 諒
2018年8月22日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
「なぜ、今頃になって日本脳炎ワクチン?」と不思議に思われる方も多いだろう。実は、私は今まで、日本脳炎ワクチンを接種していなかった。
北海道において、日本脳炎ワクチンが法定接種の対象になったのは2016年だ。すなわち、北海道出身者のほとんどが、日本脳炎ワクチンを接種していない。
北海道では、ブタから人に日本脳炎ウイルスを媒介するコガタアカイエカが生息していないと考えられていたため、日本脳炎ワクチンが長らく法定接種の対象外だった。
しかし、日本脳炎の流行域でないことを理由に、ワクチンを接種しないという理論は、通用しない。主な理由は2つある。
まず、グローバル化が進む昨今、生まれ育った地域で生涯を過ごす人は少ない。地元で生涯を過ごす人でも、旅行や仕事で移動するだろう。
次に、温暖化の影響によって、コガタアカイエカの生息域が広がる可能性がある。実際に、ある研究は、道南におけるコガタアカイエカの存在を確認した*1。
北海道内の年平均気温は、1990年頃より急速に上昇し始め、1898年から2015年までの100年あたり約1.59度上昇している。生息域はさらに拡大していくだろう。
◆国内における日本脳炎の流行
2017年、国立感染症研究所では、感染症流行予測調査事業において、全国各地のブタ血清中の日本脳炎ウイルスに対する抗体を赤血球凝集抑制法(Hemagglutination inhibition test: HI法)により測定し、日本脳炎ウイルスの蔓延状況および活動状況を調査した。
ブタの日本脳炎に対する抗体保有状況は、2017年の速報(第1報から第12報)によると、一部未調査の地域はあるが、以下の結果であった。
沖縄県0%、鹿児島県0~30%、宮崎県9~73%、大分県40~100%、熊本県0~73%、長崎県100%、佐賀県100%、福岡県80~100%、高知県70~100%。
愛媛県0~100%、香川県0~100%、徳島県10~100%、広島県0~20%、島根県0~90%、鳥取県10~60%、兵庫県0%、滋賀県0~40%、三重県30~80%。
愛知県0~90%、静岡県70~100%、岐阜県0%、石川県0~60%、富山県0~25%、新潟県0%、神奈川県0%、千葉県0~80%、群馬県・茨城県・福島県・秋田県・宮城県・青森県・北海道0%。
ブタの日本脳炎に対する抗体保有状況は西高東低だが、東日本においても抗体保有が高い地域があることは注目すべきだ。特に、愛知県・静岡県・千葉県での保有率が高い。
実際に、2015年には千葉県でも日本脳炎患者が出た。その患者は、日本脳炎ワクチン接種前の10か月の男児であり、重度の四肢麻痺が残った。
日本における日本脳炎の患者は毎年10人未満だったが、2016年は11人に増え、25年ぶりに10人を超えた。脳炎の診断は難しく、これは氷山の一角に過ぎないだろう。
◆世界における、日本脳炎の流行域拡大
日本脳炎の流行域の拡大は、日本国内だけの問題ではない。
日本脳炎は、東アジア、東南アジア、南アジアにかけての、温帯地域・熱帯地域に広く分布しており、流行域が拡大している。
日本脳炎ウイルスは、日本などの温帯ではコガタアカイエカが媒介し、熱帯ではその他の数種類の蚊が媒介する。
加えて、日本脳炎の流行には、温暖化による媒介蚊の繁殖や洪水などの自然災害も寄与する。
コガタアカイエカを含むイエカ属は、ヤブカ属と異なり、水面に卵を産み、産卵コロニーをつくる。イエカ属の幼虫は、水田や灌漑農地において成長しやすいため、気候変動による洪水もまた、同様の環境をつくる。
英国の医学誌『ランセット』2018年6月23日号に、“Protecting children against Japanese encephalitis in Bali, Indonesia”という論文が掲載され、インドネシアにおける日本脳炎流行が発表された。
インドネシアなどの赤道直下の国では、媒介蚊の生息と活動には気温が高すぎるため、これまで日本脳炎の深刻な流行はないと考えられていた。
しかし、インドネシアのバリ島では、2014年から2016年までの間に、408人の日本脳炎の症例が報告された*2。
インドネシアでは、2013年以降、毎年大規模な洪水がみられている。それまでは数年に一度であった洪水が、2013年以降は毎年発生した。
この洪水は、地盤沈下と海面上昇、インフラの整備不足、都市化による森林伐採、豪雨等の気候変動に起因する。
また、2006年に報告された研究では、インドネシアのバリ島で、急性ウイルス性脳炎や無菌性髄膜炎を発症した239人の子どものうち、86人が脳脊髄液中に日本脳炎に対するIgM抗体を保有していた*3。
IgMは最近の感染を示す抗体であり、日本脳炎の流行を示す。2006年のインドネシアでは、5月の地震の後、6月に豪雨と大洪水があり、自然災害が日本脳炎の流行を促進させた可能性がある。
ほかにも、洪水によって日本脳炎が流行した地域がある。それは、北東インドだ。
インドのアッサム州における年間の日本脳炎患者の報告数は、2010年154人、2014年744人と、約5倍に増えた。死者も、2010年41人、2014年160人と増加している。
北東インドにおける日本脳炎流行の原因は、温暖な期間の延長、豪雨に伴う洪水により、媒介蚊の繁殖が促進されたためだ*4。
一方、流行域の拡大は赤道直下の国だけではない。2016年に発表された論文では、ヒマラヤ高原における日本脳炎ウイルスの出現と温暖化の関係が示唆されている*5。
日本脳炎の症例は、2004年および2005年は、標高1000メートルから2000メートルの地域において発生しているが、2006年から2008年には標高3000メートルの地域でも認められた。
温暖化が進めば、北部やより標高の高い地域にも、流行が広がる。
さらに、日本脳炎ウイルスを媒介する多くの蚊は、塩分に対する耐性があるため、温暖化やそれに伴う海面の上昇により、さらに流行域が拡大する可能性が示されている*6。
地球の平均気温は1906年から2005年の100年間で0.74度上昇しており、2100年には平均気温が推定1.8~4度(最大推計6.4度)上昇すると予測されている。
温暖化やそれに伴う洪水などの気候変動は、予期せぬ感染拡大を起こすだろう。
◆グローバル社会における人の移動
都市化がもたらした感染リスクの拡大
国連世界観光機関(UNWTO)によると、世界の海外旅行者数は、2020年の時点で年間14億人、2030年の時点で年間18億人に拡大すると予測されている。
日本脳炎の流行域であるアジア太平洋地域では、2010年に2億400万人であった海外旅行者数が、2020年には3億5500万人、2030年には5億3500万人となると推計された。
今後は、流行域に居住する住民のみではなく、旅行者へのワクチン接種推奨も必要だろう。海外旅行者数の増加により、トラベルクリニックの果たす役割は大きくなる。
かつて、日本脳炎ウイルスは、灌漑農業や養豚業の盛んな農村地帯にみられるものであったが、今となっては、農村地帯だけの問題ではない。都市部でも感染のリスクがある。
発展途上国では、急速な経済成長と都市化のために食料確保が必要となり、都市周辺の畜産業や農業が発展し、媒介蚊の繁殖が促進された。
さらに、日本脳炎ウイルスの遺伝的変異が、媒介蚊への感染能力を高め、感染範囲を広げている。
養豚業が盛んなベトナムの都市部における研究は、7885匹の蚊を352のプールに分け、日本脳炎ウイルスについてスクリーニングしたところ、6つのプールにおいて日本脳炎ウイルス陽性の蚊が検出され、都市部における日本脳炎の感染リスクが示唆された*7。
また、ベトナムの同地区における他の研究では、豚の飼育と日本脳炎ウイルス媒介蚊の分布について調査しており、豚の飼育数に比例して媒介蚊の数が増加することが明らかになった*8。
日本脳炎ウイルスの感染リスクに晒されるのは、観光やボランティアのために農村部へ旅行する人だけではない。観光や出張のために都市部に旅行する人もまた、リスクに晒されている*9、*10。
◆日本脳炎ワクチンプログラムを普及させる必要がある
日本脳炎を発症すると、致死率は20~40%と高く、生存しても45~70%に後遺症が残る。有効な治療はないため、予防が重要だ。
日本脳炎はワクチンで予防できる。日本脳炎ワクチンには、1回の接種で済む生ワクチン、および3回の接種が必要な不活化ワクチンがある。
日本政府は、ワクチン接種に関する情報開示を積極的に行うべきだ。特に、ワクチンを接種していない世代へのアプローチは必須だろう。さらに、旅行者へのワクチン接種勧奨も必要だ。
そして、国民は、自ら情報を集め、必要な予防接種を受ける必要がある。もし、政府が動かないのであれば、自分の身は自分で守るしかない。
西日本や東北地方における集中豪雨と洪水は、日本脳炎ウイルスの媒介蚊であるコガタアカイエカの繁殖を促進させる環境であるため、一層の注意が必要だ。
論旨は変わるが、北海道以外の出身者でも、日本脳炎ワクチンの「積極的勧奨の差し控え」によって、ワクチンを打ち損ねている人がいる。
日本脳炎の予防接種後に重い病気を発症した事例をきっかけとして、平成17~21年度までの間に「積極的勧奨の差し控え」があり、予防接種の案内が出されなかった。
平成7~18年度に生まれた人は、平成17~21年度に日本脳炎の予防接種を受ける機会を逃している可能性が高く、母子健康手帳の確認、および予防接種が必要だ。
今後は、日本を含むアジア全域で日本脳炎ワクチン接種を促進する必要があるだろう。
このウイルスは「日本」脳炎ウイルスと称され、日本の冠を被る。日本がリーダーシップをとったらどうだろうか。
◆参考文献◆
1 Joshua Longbottom, Annie J. Browne, David M. Pigott, et al. Mapping the spatial distribution of the Japanese encephalitis vector, Culex tritaeniorhynchus Giles, 1901 (Diptera: Culicidae) within areas of Japanese encephalitis risk. Parasites & Vectors. 2017; 10: 148
2 Justin Im, Ruchita Balasubramanian, Ni Wayan Yastini et al. Protecting children against Japanese encephalitis in Bali, Indonesia. The Lancet. 2018; 391: 2500?2501
3 Komang Kari, Wei Liu, Kompiang Gautama et al. A hospital-based surveillance for Japanese encephalitis in Bali, Indonesia. BMC Med. 2006; 4: 8
4 Climate change linked to surge in Japanese encephalitis in North East India
https://www.thethirdpole.net/en/2016/10/12/climate-change-linked-to-surge-in-japanese-encephalitis-in-north-east-india/
5 Matthew Baylis, Christopher M. Barker, Cyril Caminade et al. Emergence or improved detection of Japanese encephalitis virus in the Himalayan highlands. 2016; 110: 209?211
6 Bradley Connor, William B. Bunn. The changing epidemiology of Japanese encephalitis and New data: the implications for New recommendations for Japanese encephalitis vaccine. Tropical Diseases, Travel Medicine and Vaccines, 2017; 3: 14
7 Johanna F. Lindahl, Karl Stahl, Jan Chirico et al. Circulation of Japanese Encephalitis Virus in Pigs and Mosquito Vectors within Can Tho City, Vietnam. PLOS Neglected Tropical Diseases. 2013; 7; e2153
8 Lindahl J, Chirico J, Boqvist S et al. Occurrence of Japanese encephalitis virus mosquito vectors in relation to urban pig holdings. Am J Trop Med Hyg. 2012; 87: 1076?82
9 Lars Lindquist. Recent and historical trends in the epidemiology of Japanese encephalitis and its implication for risk assessment in travellers. Journal of Travel Medicine, 2018; 25: 3-9
10 James C Pearce, Tristan P Learoyd, Benjamin J Langendorf, et al. Japanese encephalitis: the vectors, ecology and potential for expansion. Journal of Travel Medicine, 2018; 25: 16-26