医療ガバナンス学会 (2018年9月18日 06:00)
その次には、先生の知り合いのお坊さん、光照院の吉水岳彦さんの案内で、研究所のメンバーと浅草山谷巡りをした。先述の、樋口さんや妹尾さんも同行した。彼女たちはツアー中、常に吉水さんの隣でコミュニケーションをとる。「コミュ力高いやろ?いくら理3や慶應やいうてもあの子らには100回やっても100回負ける」先生のおっしゃる通りである。
最初に向かった先は小塚原回向院と延命寺。江戸三大刑場の一つである小塚原刑場に隣接していた、処刑者の供養のための寺院で、かの有名な吉田松蔭や橋本左内の立派なお墓があった。寺院の中を常磐線が走ることになって、寺院は二つに分断され、南側は延命寺として独立したという。お寺が分断されただなんて、ただ観光でふらっと訪れただけでは気づくことのできない衝撃の事実である。現地の方に案内してもらうことの大事さを実感した。
その後、簡易宿所の立ち並ぶドヤ街を訪れた。「ドヤというのは宿の逆さ言葉で、こんなところ人が住むところではないという自嘲的意味をこめてそう呼ばれるようになったんですよ」今の時代ググればわかることかもしれないが、現地で見て聞くと印象の残り方が違う。ある宿は、一泊二千円。用意されているのは寝床のみだ。
次にやってきたのは、いろは会商店街。「商店街にはアーケードがありました。しかし今年老朽化で取り壊され、シャッターの降りた店も多いため新たにつくることは断念。アーケードのない商店街はまだ見慣れません。」それでも営業しているお店はいくつかあって、お酒を飲みながら談笑しているご年配の方などもいてのんびりとした雰囲気。故郷愛媛の商店街を思い出した。懐かしい。
商店街の奥には1990年に山谷の労働者によって作られた山谷労働者福祉会館や訪問看護ステーション「コスモス」、また商店街の少し外れには山谷の労働者の総合相談所である城北福祉センターがあった。表にはたくさん人がいて、談笑していた。渋谷、新宿その他大都会では見たことがない光景である。高度経済成長期の日本を支えた労働者達も高齢化。かつて日雇い労働者の街として栄えた山谷は福祉の街へと姿を変えつつある。
「今からあそこに溜まってる人たちの前を通ります。おそらく博打をしていると思います。もし絡まれたら私が対応しますので、そのまま通り過ぎて下さい」と吉水さん。一行に緊張が走った。なんとこの辺では血まみれの殴り合いも驚くことではないらしい。この前吉水さんが喧嘩を止めに入った時はこう言われたという。「こいつはこうでもしねえとクスリやめねぇんだよ!」
次に向かったのは認定NPO団体「山友会」の運営する無料診療所。「一応医療機械はありますけど古いし、ほとんど使うことはありませんよ。」(山友会理事の薗部さん)ここでは話をじっくり聞いてあげるなどの心のケアや、軽い怪我の処置のみを行い、特に具合が悪い場合は近くの大きな病院にすぐ引き継いでもらうことになっているそうだ。同団体はそのほかに「山友荘」という無料か低額で宿泊することのできる施設を運営している。
最後に向かったのは山谷のホスピス、きぼうのいえ。驚いたことに、屋上の礼拝堂には十字架が飾られていると同時に仏壇のようにお線香があげられていた。「宗教にかかわらず、みんなのために祈りたい。そういう思いで作られた部屋なんです。」とスタッフの中川さん。またそこには創設以来亡くなった方達の遺影がほぼ全て並んでおり、みなさんが笑顔で写っていた。「ここの入居者さんに写真好きの方がいて、撮ってくれたんです。その方が撮るときはみんな不思議と笑顔になってました。」入居者さん同士も仲がいい。その雰囲気づくりもこの施設では大事になってくるのだろう。
行動しなければ何も変わらない。想像しているだけでは駄目。物事、外からの見た目と内側にいてこそわかる実情には隔りが存在する。こんなこと普段から多くの人が言っていることだが、自分で痛感しないとなかなか肝に命じられない。何かを想像だけで終わらせてじっと家にこもるのはもうやめにしようと誓った日であった。自ら実情を知る機会を獲得していかなければならないのである。
西村 洸一郎 愛媛県松山市生まれ
平成25年 愛光中学校卒業
平成28年 灘高校卒業
平成30年 慶應義塾大学医学部入学
現在慶應医学部1年生