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Vol.197 「近づいてはいけない病院」【連載レポート】強制不妊(21)

医療ガバナンス学会 (2018年9月28日 06:00)


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この原稿はワセダクロニクル(8月2日配信)からの転載です。

http://wasedachronicle.org/articles/importance-of-life/d26/

ワセダクロニクル

2018年9月28日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

http://expres.umin.jp/mric/funin21-1.pdf
愛宕診療所 出典:『仙台市史』

飯塚淳子は1963年、仙台市内の病院で不妊手術を強いられた。その病院は広瀬川にかかる愛宕橋のたもとにあった。雑木林に囲まれるように建っていた。

淳子が不妊手術を受けさせられたこの病院は、1950年に宮城県が設置した。1962年までは違う役割を担っていた。進駐軍の米兵たちを相手に売春をしている女性たちを対象に、性病予防法に基づいて性病の治療をする病院だった(*1)。宮城県が「愛宕病院」として運営していた。
米兵など外国人兵士を相手に売春をする女性たちは「パンパンガール」(*2)と呼ばれた。仙台市内に進駐軍の駐屯地(*3)があったため、彼女たちは仙台駅周辺に立ち、米兵の客引きをしていた(*4)。
当時の仙台市内での「パンパンガール」の状況について、産婦人科医の長池博子(*5)は、自著で次のように語っている。長池は仙台市立病院で彼女たちの診療にあたっていた。愛宕病院の院長は東北帝国大学医学部の先輩だった
「外人相手の女たちが、自分の体の事や健康の事など考えもせずにお金を稼いでいた。一方では、泣きながら娘を捜しにやってくる親もいた。女たちはペニシリンなどで性病の治療が済むと、街に戻って行く」(183頁)
彼女たちの中には中学を出たばかりの未成年者もいた。長池は治療をしながら少女たちがなぜ売春をするようになったのか尋ねた。多いのは「仕事がない。まともな職業につけるのなら、こんなことはしたくない」という理由だった。長池はこう書いている。
「東北は、凶作になると家の生計を支えるため身売りさせられる娘たちもいたのだ。彼女たちの話を聞いていると、いても立ってもいられなくなって『仕事を探してやるから』と、出かけることもあった」(184頁)

愛宕病院の近くで2017年まで酒屋を営んでいた女性(93)は、病院に連れられてくる女性たちのことを覚えていた。
「派手な服装をした女性たちが、車に乗せられて病院に診療に来ていた。ゾロゾロと。『パンスケ』って呼ばれていた」(*6)
病院に近い愛宕神社で名誉宮司を務める郡山宗英は1937年生まれで当時中学生。病院が雑木林に囲まれて、中の様子がよく分からなかったのを覚えている。大人たちからは、こういわれた。
「あの病院に近づいてはいけない」(*7)

日米安保条約の締結を根拠に駐留を続けた米軍は1957年11月、仙台から完全に引き揚げた(*8)。米兵相手に売春をする女性もいなくなり、愛宕病院の当初の役割は終わった。
しかし、宮城県は病院を診療所に縮小して存続させた。
宮城県は強制不妊手術を徹底するためにアクセルを踏んでいく。
(敬称略)
*年齢は取材当時
=つづく
(C)Waseda Chronicle, All Right Reserved.
[脚注]
*1 1962年10月3日宮城県議会での三浦義男知事の答弁。
*2 パンパンという言葉の語源は、東南アジアに駐屯する旧日本軍が使用していたという説もあるが、定まっていない。パンパンガール という言葉は敗戦直後の1945年10月頃から広がり始めたという。翌1946年暮れに売春婦一般を指す言葉になったようで、その言葉から「オンリーワン」「バタフライ」「青カン」「ジキバン」などの新語が生まれた。米兵専門の街娼が「洋パン」、日本人専門が「和パン」と呼ばれた。1950年代半ば頃まで使用されていたという。出典:マイク・モラスキー「はじめに」『街娼』皓星社、2015年。下川耿史『性風俗史年表 昭和戦後編』河出書房新社、2007年。伊藤裕作・週刊大衆特別取材班『戦後「性」の日本史』双葉社、1997年。
*3 仙台市内には、苦竹に「キャンプ・シメルフィニヒ」、多賀城に「キャンプ・ローパー」、榴ヶ岡に「キャンプ・ファウラー」、川内に「キャンプ・センダイ」があった。1952年のサンフランシスコ平和条約締結後も、米軍は日米安保条約に基づき、仙台には米軍が駐留した。出典:仙台市史編さん委員会編『仙台市史特別編4 市民生活』1997年、328頁。
*4 長池博子『女性よ賢くあれ〜母娘二代 女医の道』河北新報社、1999年。また、吉田秀弘『日本買春史・考』(自由社、2000年)では、当時の状況が「終戦後全国の進駐軍基地周辺は、兵士を目当ての娼婦が集まり、特に千歳・仙台・立川・横須賀・呉・板付・佐世保などでは千人から三千人が部隊の移動に関連し南の端から北の端まで移動するもの多かった」(157頁)と紹介されている。
*5 1923年生まれ。宮城県第一高等女学校、東京女子医科専門学校卒業後、東北大学医学部産婦人科学教室、公衆衛生学教室に勤務。1951年には宮城県で初めて産婦人科病院を開業。1999年に男女共同参画社会づくり功労者内閣官房長官表彰を受ける。2011年死去。出典:長池博子『女性よ賢くあれ〜母娘二代 女医の道』河北新報社、1999年。鈴木カツ子「長池博子先生のご逝去を悼む」2011年、宮城県女医会ウェブページ(2018年8月1日取得、 http://miyagi-mwa.com/chouji.html )。東北大学医学部産科学婦人科学教室同窓会「お悔やみ(平成23年)」2011年、同同窓会ウェブページ(2018年8月1日取得、 http://www.ob-gy.med.tohoku.ac.jp/alumni/alumni2011.html )。
*6 2017年9月14日取材。
*7 2017年9月14日取材。
*8 仙台市史編さん委員会編『仙台市史 特別編4 市民生活』1997年、329頁。

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