医療ガバナンス学会 (2010年3月1日 08:00)
帝京大学ちば総合医療センター血液内科の立ち上げ(1)
帝京大学ちば総合医療センター
血液内科
教授
小松恒彦
2010年3月1日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
[はじめに]
昨今、主に医師不足による地域医療の崩壊が起きています。房総半島の入り口に位置する市原市にある帝京大学ちば総合医療センター(以下、帝京ちば)も例外ではなく、筆者が赴任する2006年7月までは数年間血液内科医がいない状態が続いていました。
当時の血液内科の状況は、市原市全体でも千葉労災病院に常勤医1名、内房地域はゼロ。外房地区には亀田総合病院という一大拠点施設がありますが、市原市や内房線沿線地域の住民からは「かなり遠い」という声が上がっていました。
帝京ちばで血液病患者が院内発生したときも、転院先を探すという有様で、地域の中核病院としての責務を十分に果たせない状況でした。さらに帝京ちばは、地域で唯一の大学病院でもある以上、単に血液の医師が1名います、では不十分で造血幹細胞移植などの医療を行える質の担保と人員の確保に加え、研究・教育機関としての役割も求められていました。
その任を担うべく2006年8月、筆者が赴任することとなりました。むしろゼロからの立ち上げをチャンスと捉え、「自分好みの」血液内科を創設しようと考えました。個人的には「自分のquality of life(QOL、生活の質)が低い医療者が、患者のQOLを上げられる訳が無い」と考えています。さらに医療過疎地域で、単に血液内科を開設したといっても魅力がなければ人は集まりません。そこでチーム小松の目標を「過重労働を排し、自分自身のQOLを保ちながら楽しく働く」としました。果たしてそんなことが可能なのでしょうか?
[赴任までの経緯]
筆者は、1989年に筑波大学医学専門学群を卒業し、筑波大学付属病院で2年間の内科研修の後、筑波大学大学院に進学、修了後は筑波記念病院血液内科、筑波大学付属病院血液内科で後期研修を行い、1998年から再び筑波記念病院血液内科医長に着任しました。
医師としては珍しく、常勤はたったの2施設で、大学入学後はつくば市から一歩も出たことのない「箱入りドクター」でした。大学病院の宮仕えが嫌、自宅から遠いのも嫌、公務員も嫌、ということで敢えてつくば市内の市中病院を選びました。2002年頃よりミニ移植(抗がん剤の強度を弱め高齢者でも実施可能な同種造血幹細胞移植)や臍帯血ミニ移植などの当時としては斬新な治療法を導入し、一時は茨城県で筑波記念病院が最も臍帯血移植数が多い、という時期もありました。一人医長でしたがクリティカルパスなどをフルに活用し看護スタッフや研修医などの協力も得られ、それなりに充実した日々を過ごしていました。しかし、徐々に1人であることの限界や体力の減退も感じていました。
知人から「いま小松先生がやっていることはすごいけれども、このままでは年をとって衰えたらそれでお終まいじゃないですか。新天地で自分の組織を立ち上げることを考えた方がいい」とズバッと言われ、単純にもそれを受け入れたことが全ての始まりでした。「帝京ちばで血液内科立ち上げをやってみないか」との話があり、内科主任教授のN先生、病院長のW先生と面接を受け、助教授で採用、赴任時期は一任する、と一気に話が進みました。
幸い筑波記念病院血液内科の後任も決まり、筆者が週2日非常勤としてサポートすることとなり、後顧の憂いを減らして2006年8月2日に帝京ちばに初出勤となりました。
[最初の半年間]
まず直面したのは通勤です。自宅(つくば市)から帝京ちばまで、高速を使えば1~1.5時間くらいかな、と高をくくっていたところ、朝の渋滞時間だと楽に2時間オーバー、といって一般道を通ると2時間半以上、これを往復週3回以上通わねばなりません。電車も乗り換えが多い上、時間もほぼ同じ位かかります。車のナビゲーションの設定を色々変えて、裏道を走ったり、途中で食事をしたり、早い時間に出発したり、長時間運転のせいか2007年2月には腸閉塞で10日間入院するハメにもなりました。
いまのパターン(自宅発は深夜午前2時頃、帰りは市原を夕方5時半発、いずれも一部区間のみ高速道路使用)に辿り着くまで多くの試行錯誤が必要でした。しかし、この過程を経て時間調整や移動のスキルが高まりました。最近は東京都板橋区にある帝京大学本院や、厚生労働研究班代表者として頻繁にあちこちに行く機会が増えましたが、大変スムーズに時間通りに移動することができるようになりました。
医師としては通勤時間が長い方ですが、世間では毎日4時間通勤という方も多いと思われます。この問題を克服する過程で時間管理と健康管理の重要性を学ぶことができました。また「箱入りドクター」のため筑波大学関連施設はおろか、他大学の風土など知りません。筑波大には医局がないという事情もあり、助教授でありながら、医局講座制という制度も知らず、一体どこで何をすればいいのか、暗中模索が始まりました。
12月に助手としてM医師が赴任する予定なので2007年1月の病棟稼働を目標としました。そこでまず考えたのが、病棟や外来の看護師さん達と仲良くなることでした。彼女(彼)らと協力体制を築くことの大切さは、筑波記念病院でクリティカルパスを運用するときに身に沁みていました。現場の看護師さんに加え、師長クラスや看護部長とも連絡を密にし、飲み会や食事会を何度もやりました。そこを足掛かりに院内の情報や人間関係を教えてもらうことができ、徐々に輪が広がりました。
ただ、それだけでは時間が余り、つくば~市原を週3往復のため飲み会をできるのも週1~2回に限られます。その時間を利用して途方もないことを考えました、「厚生労働研究班に応募しよう」と。実は2006年4月から筑波記念病院の医師として、4つの研究班の研究分担者として活動することの許可と支援をいただいていました。そのため書類作成や予算の管理の経験があり、さらに贅沢なことに筑波記念病院で筆者の予算管理だけをする専任者を採用していただけました(普通こんな厚遇はないと思います)。勿論、研究分担者と代表者には大きな溝が存在します。でも魅力がなければ人は集まらない、という趣旨のもと無謀にもチャレンジを始めました。12月上旬が提出期限であり、11月以降は書類作成に没頭しました。という訳で当時は、週3.5日は帝京ちばで書類作成、外来、当直、飲み会を、週2日は筑波記念病院で回診、外来、研究班活動を行うという生活を送っていました。
12月にM医師が赴任され、病棟稼働に向けての具体的な準備が始まりました。最も重視したのは夜間のon call制です。主治医が全て対応するのは齟齬を減らすには有効ですが、真の休息がとることができず過重労働の元凶です。そのため、治療方針やポリシー、クリティカルパスや夜間緊急時対応などの統一を図りました。当初は、筆者が市原に週1泊しかできないのでM医師に大きな負担がかかってしまいましたが、2007年以降人員の増加で解消されました。また当時、帝京ちばは診断群分類(Diagnosis Procedure Combination: DPC)対象病院ではありませんでしたが、医師、看護師共にDPCに対応した病棟運営を当初から指示しました。ここは筑波記念病院で鍛えたDPC対応パスのノウハウが役立ちました。こうして2007年1月を迎えました。(続く)