医療ガバナンス学会 (2010年3月9日 08:00)
ただし、私が福島県出身ということで、少し割り引いてご判断下さい。
上先生が述べられたように、人口当たりの配置を考えるべきと思います。
東京近辺の人口は増え続けていますが他は減っていくことを考えますと、将来の人口動態も考慮しないといけないでしょう。
会津に医科大学を作るというのはいかがでしょうか。
会津には、佐賀・鍋島藩の弘道館と並んで最高の藩教育を行った日新館がありました。
できれば、復元された日新館の隣りに医科大学を作るのがいいと思います。
市の中心からもさほど遠くないし、学生は山川健次郎の魂に直に接することが出来ます。
会津をもう一度学問の中心にする・・・いかがでしょうか。
あと作るとすれば、千葉県の東京寄り・・・患者が多すぎて全く足りません。
神奈川の西部から静岡県の東部にかけても不足しています。
浦安にも伊豆にも順天堂大学の分院があります。
私は長年これらの分院で回診してましたが、付近の病院・医師不足は深刻です。
宮城県の人口が234万人ですので、人口からすると宮城県にもう1つあってもいいと思います。
なぜ会津を学問の中心にしたいか。
戊辰戦争後に活躍した二人について最近書いた駄文をご覧ください。
題して、「山川健次郎と朝河貫一」。
おそらく2人の名前ともご存じない方が多いと思います。
2人の共通点は? いずれも戊辰戦争で敗れた藩の武士の子でした。2人ともエール大学に学んでます。
ということは、2人も会津藩? いえ、山川は会津藩で、朝河は二本松藩でした。
山川は白虎隊の生き残り組です。白虎隊といっても年齢層が広く、実際に飯盛山で自刃したのは年長組みでした。
山川は幼少組で、会津若松鶴ケ城で籠城しました。
というわけで、2人とも出身は福島県です。
山川はエール大学を卒業後に帰国し、東京帝国大学で物理学を教えました。弟子に長岡半太郎がいます。
やがて、東京・九州・京都の各帝国大学総長にまで上り詰めた人でした。
会津藩の藩校・日新館は、司馬遼太郎によりますと、佐賀・鍋島藩の弘道館に負けないほどレベルの高い教育をしていたとのことです。
山川は日新館でもずば抜けた秀才だったようで、その優れた才能は若いときから注目されていました。
原寸大に再現された日新館の門前に、山川の銅像があります。
一方、朝河も旧・安積中学きっての秀才で、中学の答辞を英語で読んだそうです。
英人教師ハリファックスは、その文章の見事さに、「やがて世界はこの人を知るであろう」 と語ったとのことです。
昨年1月、エーザイが持っている抗がん剤のことで、Yale Cancer Center の医師に相談に行くことが必要になりました。
そこで、ちょうど良い機会と、エールでの2人の足跡を調べることにしました。
まずは、山川が最初に留学した高校を探しました。
この高校は、コネチカット州の Norwich という町にあることになっています。
ボストンから南西へ車で2時間もかからないところです。
エール大学がある New Haven よりもずっと東にあって、静かで落ち着いた小さな町です。
町の中心に大きな高校がありました。Norwich Free Academy といいます。
この高校へ行って卒業生名簿を調べましたが、1872年前後に彼の名前はありませんでした。
そこで町の図書館へ行き、当時他に高校がなかったかなどを調べましたが、やはりここしかありません。
そこで思い出したのは、当時の校長先生の名前です・・・ハチソン先生です。
ありました!! 当時の Norwich Free Academy の校長先生の名前は、まさにハチソン先生でした。
ですから、山川がここに在籍していたことは間違いありません。
では、何故彼の名前が卒業生名簿になかったか?
想像するに彼は1年しか在籍していなかったせいで、正式には卒業していなかったのではないでしょうか。
彼はその後、明治5年の夏にエール大学の Sheffield Scientific School に入学しました。
朝河は家が貧しく、早稲田の前身の専門学校を卒業後、本郷教会の牧師・横井時雄の紹介で、彼の友人ウイリアム・J・タッカーが学長をしていたダートマス大学に学費免除で入学しました。
因みに、横井が留学していたのはアンドーバー神学校でしたが、この神学校はエーザイのボストン研究所がある Andover にありました。
ダートマス大学はアイビー・リーグの1つで、私も昔、レジデントの職を求めて面接に行ったことがあります (断られました)。
アンドーバーからさほど遠くないニューハンプシャー州 Hanover にあります。
ダートマスでレジデントをしていたのが Medical University of South Carolinaの教授をしておられる小川眞紀夫先生でした。
先生はここで1969年、世界で2例目となるIgE骨髄腫 を見つけて、患者検体を当時デンバーにおられた石坂公成先生に送って解析してもらったそうです。
話は横道にそれましたが、朝河はダートマスを主席で卒業し、エール大学大学院で歴史学を学びました。
その後、彼はずっとエールを離れず、最後までエールの教授でいました。アメリカの大きな大学で教授になった初めての日本人です。
彼の勉強振りはすさまじかったらしく、6-7カ国語を駆使して、日本の封建時代が世界の歴史の流れに占める位置を解明しようとしました。
日露戦争のときにはアメリカ中を講演して回り、何故日本が戦争に突入せざるを得なかったかを説き、米国の世論を日本に有利になるよう導きました。
歴史学から見た日露戦争を執筆し、ポーツマスの日露和平交渉では日本側のオブザーバーを務めました。
太平洋戦争を避けるべくルーズベルト大統領に送った書簡は有名だそうです。
この書簡で朝河は、ルーズベルト大統領が昭和天皇に直接親書を送ることを提案することで戦争を回避しようと努め、さらに天皇に宛てる親書の内容までも提案しました。
読んでみますと、難しい英語が並んでいて、流し読みは到底不可能な文章です。
実際にルーズベルトが書いた親書はかなり違うようですが、彼が提案した親書が修正に修正を重ね天皇に届いたのは、日本軍がパールハーバーに向けて飛び立った後でした。
エール大学の先生たちの墓地が大学の近くにあります。彼はここに眠っています。
墓石が雪の下に埋もれていて見つからないのかなと、次々に墓の雪をのけていきましたがやはり見つかりません。
そこでもう一度管理人室に行き聞き直しましたところ、彼が教えてくれた区画が間違っていて、今度は容易に見つかりました。
朝河の業績を記念して、彼がエールに来て100年経った年、つまり3年前ですが、大学構内に朝河庭園が作られました。
意外に小さいのですが、石が見事でした。
朝河の母親は朝河が2歳のときに他界し、後妻として来たのが私の郷里、梁川町の神官の娘でした。
この継母のおかげで、朝河は丈夫な子に育ったそうです (スミマセン、最後はいつも故郷の話になります)。