医療ガバナンス学会 (2019年4月24日 06:00)
秋田大学医学部医学科5年
宮地貴士
2019年4月24日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
「診療所がなくなったら薬のためだけに30分も運転しないといけなんだべ」佐藤としおさん(92)は言う。
佐藤さんは上小阿仁村の八木沢集落に生まれた。「夏は川で魚を採り、冬は山に猟に出た。熊の毛皮とか内臓はよく売れたぞ。結構もうかったな、がはは」集落に100人以上が住み、にぎやかだった過去を懐かしむ。高度経済成長に伴って状況は一変した。集落の若い衆は都会にどんどん流れて行った。現在集落に住む人はたったの9人だ。佐藤さんは最後までこの集落に住みたいと願っている。八木沢集落を形成したのは隣町から移り住んできたマタギたち。その土地を愛し自然を敬い自然と共に生活する先人たちのスピリットが佐藤さんにも宿っている。
佐藤さんは92歳とは思えないほど元気だ。普段は畑をいじったり、ご近所さんと会話したり自分のペースで充実した生活を送っている。健康を維持する上で、村で唯一の医療機関、国保上小阿仁診療所の存在も大きい。月1回は診療所に行き、薬をもらっている。
上小阿仁村の人口は秋田県の市町村で最も少ない2,375人、高齢化率は最も高く51.1%である。(出典:総務省 国勢調査及び国立社会保障・人口問題研究所 将来推計人口2018年1月1日)当たり前だが、医療のニーズも強い。平成31年3月号の「広報かみこあに」によると平成30年4月から平成31年1月の期間、上小阿仁診療所の一日平均患者数は30人だった。車の運転ができない高齢者の多くが村の提供するシャトルバスを利用して診療所にやってくる。
そんな地域の命を守る拠点で“事件”が起きた。平成31年2月5日~7日にかけて診療所に勤める医師が患者を診察せずに処方箋を書いてしまった。当時医師はインフルエンザに罹っていた。5日の朝に判明し診療所は休診にした。ただ、患者が来てしまったため、新患は別の病院に行ってもらったが、慢性疾患等で定期的に薬を処方している患者に対しては看護師が診察し患者の様子を医師に電話で伝えた上で、処方箋を出した。このような対応を受けた人は3日間で合計46人に上った。一連の行為は、秋田県医療安全管理センターに確認の電話があっため発覚した。最終的には役場の管理ミスという扱いになり、村長が謝罪。医者は減給10分の1(1か月)の処分を受けた。
私は関係者を処分しこの一件を収束させることに危機感を抱いた。そもそもこの3日間、診療所が完全に閉鎖した場合、患者はどうなっていたのだろうか。また、明日にでも同じ事態が起きた場合、対応策はどうなっているのか。私は、診療所スタッフや診療所の管理者である役場の方たちにアポイントを取ろうと試みた。だが、驚いたことに、全て門前払いを食らった。この事態が発覚した後、診療所の関係者に「公務員の守秘義務に関する規約」が配布されていたようだった。一体誰に対して何を守秘する必要があるのか。閉鎖的な村の現状を物語っていた。
診療所の所長であり村唯一の常勤医、柳一雄氏は80歳と高齢だ。柳さんは2013年に当時無医村となっていた上小阿仁村に赴任した。80歳までの契約であったが、後任の医師が見つからないことから3年を上限に一年ごとに契約を更新している。先生について村唯一の薬剤師、松岡裕子さんは言う。「先生は非常に正直でまじめな方です。内科が専門ですが自分があまり経験したことない症例はほとんど他院に紹介しています。患者さんを診ているときも自分が言っていることが正しいか、本で確認しているみたいです。」また、数か月前に予防接種を受けた村上慧さんは、「先生は本当に頑張ってくれています。ご高齢ですが、それでも村のために尽くしてくれています。」と非常に感謝している。
今回の一件に対して村上さんは言う。「先生はいいことやってくれましたよ。医者がいない不便な田舎なんだから、型にはまっていられないんです。」村上さんの意見に私も賛成だ。そもそも、医療を求めて診療所まで来た患者に対して何もせずに帰すことなど、医療者としてできるだろうか。患者にも医療を受ける権利がある。その権利が医療提供者側の規制によって脅かされる事態があってはならない。
患者の権利と医療規制を考える上で参考になるのがニュルンベルク医療裁判だ。第二次世界大戦中、人体実験に加担したとして多くのドイツ人医師が処刑された裁判である。教科書的には医学研究における倫理規定が確立されたきっかけとして説明される。ただ、あの裁判で問われたのは医師の倫理と国家権力が対立した際に何が優先されるか、ということである。なぜなら、当時の実験はナチスドイツが制定した法律上、合法として行われていたからだ。医師たちは、「ナチスに強制的にやらされた。」と発言し自分たちの責任を否定した。ただ、裁判の結果はご存知の通り。いかなる国家のルールよりも目の前の患者の権利が優先される。それ以降のグローバルスタンダードが確立された。
今回の一件で考えると、医師が直接診察しないと処方箋を書けないことを理由に、病院に来た患者を何もせずに帰宅させるのは患者の人権侵害に値するのではないだろうか。国家の規制を超えて、その場にできる対応を行い、患者の命を守ったことは当然の行いであると言える。むしろ、「看護師が診察して医師にコンサルした上で処方箋を書く」というのは無医村における未来の医療モデルではないだろうか。
現行の医療制度では医師の権限が絶大だ。処方箋の発行、介護認定、死亡診断書の作成に至るまで全て医師のみに与えられた特権だ。そのため地域の医療を守るためには医師の存在が必要不可欠になっている。しかしながら医師の数は足りていない。2017年のデータでは1,000人当たりの医師は2.30人であり、OECD加盟35か国中30番目であった。(出典:WHO, GHO data repository 2017)OECD加盟国の中で最も高齢化が進んでいるのは日本だ。
では、医師が少ない中で住民の命を守るためにどうすればよいのだろうか。私は規制を緩和するべきだと考える。例えば、アメリカなどで一般的になっているナースプラクティショナーの制度を作り医師の権限を譲渡すること、スマホを持たない高齢者向けにオンライン診療の拠点を設け、薬の処方を受けられるようにすること、上小阿仁村の全世帯に配布されたディスプレイ機能付きIP電話による遠隔診療と薬剤師による配薬サービスを導入すること。住民の方々と話していく中で様々なアイデアが出てきた。やれることはまだまだある。
新しいことに取り組む際は常にリスクが伴う。事前に規制をかけるのか。事後規制を設けていくのか。それを決めるのは住民だ。
現在上小阿仁村では村長選挙と議員選挙が行われている。2015年の選挙では投票率が88%、幸いにして村民たちの村の未来に対する関心は高い。日本の縮図、上小阿仁。住民たちの「選択」が注目されている。