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vol 99 千葉県の医療再生を目指して 帝京大学ちば総合医療センター血液内科の立ち上げ(3)

医療ガバナンス学会 (2010年3月18日 07:00)


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帝京大学ちば総合医療センター
血液内科教授
小松恒彦
2010年3月18日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


【医師の確保】
2007年春頃から、帝京ちばと筑波記念の血液内科医師を確保すべく何度も面談や会食をしました。もちろん空振りがほとんどですが、多くの医師と将来を語り、共に働けないか、という話で盛り上がるのは、面白いうえに人脈も広がり、時には有益な情報も入手でき、「箱入りドクター」の筆者には楽しい経験でした。

筆者の大学の先輩で、移植のできない地方の病院でずっと1人医長をしていたS医師がいました。足掛け1年かけて「移植は楽しいですよ、血液内科の華ですよ、特に臍帯血ミニ移植なんて応えられませんよ」と悪魔(?)の囁きを続けました。その甲斐あってか、2007年7月に筑波記念血液内科に着任してくれることになりました。医局の意向に背いての異動なので感謝感激でした。ただ逆に筆者の後任であったA医師が都合で退職することとなったため、増員とはなりませんでした。

秋頃、また動きがありました。T大学からの内科ローテーションで筑波記念血液内科に勤務していたI医師が血液内科に興味をもち、数回の飲み会を重ねたのち「小松組」の一員として4月から筑波記念血液内科で働きたい、と言ってくれました。若者の参加は非常に大切な事なので、これも大変嬉しかったです。

「QOL(生活の質)の高い職場」には一つの診療科に医師3人、というのが筆者の考えです。少なくても1人医長は避けるべきなので、目標の3人には足りませんが最低限の人員確保ができました。さらにこの頃、一時的に筑波記念で勤務していた後輩のT医師(女性)に「帝京ちばで働いてくれない?」と聞いたところ、「いいですよ」との返事、さらに知人の紹介で、亀田総合病院の初期研修医をしていたT医師も4月から帝京ちばに来てくれる事になりました。

人員に余裕ができたので、大学院生のM医師の病棟業務を免除し研究に専念させることにしました。そこにも幸運なエピソードがあります。筆者が大学院生だった十数年前、工業技術院(現産業技術総合研究所、以下産総研)の研究室に出向し実験をしていました。2007年夏、つくば市内のホテルバーで呑んでいたところ、偶然、工業技術院の同じ研究室にいたI氏が別の飲み会にいました。「久しぶりですね」と挨拶し互いの状況を話したところ、I氏は産総研で順調に偉くなっており「そのうちまた一緒に研究ができるといいですね」と盛り上がり、互いの連絡先を交換しました。その直後に大学院生のM医師の研究先を探す事となり、早速I氏に連絡しました。数回の面談とメール交換の結果、I氏の研究所でがん細胞薬物耐性機構の研究をしているO氏の指導下で研究ができる事となりました。帝京ちばの大学院生で、外部の研究機関に長期出向した前例がなく、手続き上少々難渋しましたが、せっかく大学院で学位を取得する訳ですから、最先端の環境で世界に通じる研究を体験してほしいとの考えで押し切りました。2007年12月からM医師は産総研に出向しがん細胞に関する研究を続けています。以上より、2008年4月からの陣容は、帝京ちばは筆者が准教授、他助手3名、大学院生(出向中)1名、筑波記念は常勤医2名、と2006年8月筆者のみ1名から、かなり拡充されました。

【電子カルテ、システムとの出会い】
2008年4月、人員も増え、厚生労働研究も始まり、「やっと落ち着いて診療と研究に専念できる」と考えていましたが、そんなに甘くはなく新たな業務を指示されました。

帝京ちば病院長から、「外来化学療法センター開設を予定しているが進捗が遅れているので手伝ってくれないか」との依頼を受けました。経緯も状況も、何より誰がどう関わっているのか分かりません。関係者を探し直接話を聞き、その人に次の関係者を教えてもらう、という作業を繰り返しました。その結果、必要な部署と人員は概ね決まっていましたが、皆を繋げ上層部と交渉する人物と抗がん剤治療を安全に遂行するためのシステムがない、という問題が判明しました。

このプロジェクトに関しては新参者なので、自分がリーダーとなるのは気が引けましたがやむを得ません。まず個々の関係者としっかりと話をして信頼関係を結び、自分が中心となって連携を構築し、開設に至る実働的なグループを構成し定期的な協議会をもちました。運営上の問題は徐々に解決されましたが、抗がん剤治療を安全かつ円滑に進めるための電子システムが必須でした。従来のシステム機能の範囲内で一般処方としてオーダーすることはできましたが、「外来化学療法センター」というには不十分です。当時の電子カルテ運営会社のシステムエンジニア(以下SE)K氏と抗がん剤投与セットを事前登録しオーダーする仕組み(レジメン機能)の作成に没頭しました。筆者には電子カルテやシステムの知識や経験は全くありません。抗がん剤治療のやり方を説明し、それをK氏がレジメンという形に現し、会社のプログラマーが製品として作成する、という流れでした。K氏の多大な尽力により、安全かつ使いやすいレジメン機能が完成しました。その甲斐あって予定通りの6月開設に漕ぎ着けました。オープン記念セレモニーで帝京大学の冲永理事長、帝京ちばの和田病院長となぜか筆者が並んでテープカットを行いました。

そちらが一段落し、やれやれと思ったのもつかの間、今度は「病院全体の電子カルテ入れ替え事業にプロジェクトメンバーとして参加してほしい」と病院長から要請されました。一部門ならともかく、病院全てを管理する仕組みの導入です。先ほども述べましたが、筆者にはなんの知識も経験もありません。「電子カルテって使いにくいよな」と文句を言う事はあっても、自分が管理する側になるなど想像がつかない事でした。さすがに少々悩みましたが、元来、筆者は几帳面ではなく、楽観的に流れに委ねるタイプです。目の前にあることをとりえずこなしていました。ただ若干のポリシーがあり、物事を判断する際は、せめて考え方だけはカッコ良くありたい、というのと、決断する場合はたとえ遠回りであっても面倒であっても、自分の成長に繋がる方を選ぶ、ということです。今回もポリシーに則り「電子システムという自分にとっては未知の領域を手中にする千載一遇のチャンスだ」と捉え、積極的に参加すると決めました。

丁度その頃、導入予定のF社の電子カルテ運用で有名なS病院へ見学に行く予定がありました。通常の見学が終わった後に、S病院のシステム課課長でSEのH氏に「電子カルテを成功させる最大のポイントは何ですか?」とこっそり訊ねました。「病院側のSEを複数採用する事です」と教えてくれました。病院職員でシステムに精通している者はほとんどおらず、システム会社と互角に渡り合うことは不可能です。専門的知識を有し病院側の利益に沿って行動できる人材が、病院から利益を得ようとしている外部の会社との交渉には必須です。プロジェクト会議で病院側SEを最低2名採用しようと提案し合意が得られました。1名は事務方が見つけましたが、あとの1人は前述したK氏を是非自分の直属のSEとすべく、本人、所属会社、病院上層部を説得し実現させました。

実はこの時点で、既に成功はほぼ間違いなしと確信できました。全ての情報が分かりやすく筆者の耳に入り、問題点も明確となり解決策も提示され、筆者はそれを円満に、時には強権的に、解決すればいいのです。最終的には各部門から真に役立つ実働メンバーによるワーキンググループ(komatune WGと呼ばれていました)を結成し、事実上その会で多くを決定していきました。一部の方からは「小松組が勝手に独走している」との指弾も受けましたが、2009年2月16日リリースという至上命題を達成するためには、日本的な悠長なプロセスを踏んでいる余裕はありません。
2009年1月、筆者がシステム委員会委員長および医療情報システム部副部長に任じられ、審議と現場双方の長であることが追認されました。お金が必要な部分はプロジェクト会議を通して、病院長や事務長に理事長決裁を得るべく動いていただき、「2/16」をキーワードに現場仕事は「komatune WG」が一丸となり問題を解決していきました。そして予定通り、2月16日午前0時に新電子カルテが稼働しました。不測の事態に備え、筆者もいつもの移動生活はやめ、1週間帝京ちばのシステム部にいました。特に大きな問題もなく1週間が経過、事務長のご厚意で「電子カルテ導入記念パーティー」を職員食堂で開催されました。多くの職員が集まり祝って下さいました。いままで経験した事のない仕事でしたが、無事全うする事ができ「やって良かった」という思いがこみ上げてきました。また、この1年間血液内科の責任者としての責務がほとんど果たせなかったにも関わらず、現場を守りさらに研究業績まであげてくれた血液内科スタッフには感謝の気持ちで一杯でした。(続)

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