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vol 103 診療報酬体系成立の歴史を検証する

医療ガバナンス学会 (2010年3月20日 09:00)


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わだ内科クリニック院長
東京女子医大非常勤講師
和田眞紀夫
2010年3月20日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

【健康保険開始前夜】
健康保険制度はどうあるべきかという問題を考えるとき、現在まで連綿と続いている診療報酬体系がいつどのようにして成立したかを確認しておくことが必要ではないだろうか。健康保険制度が普及する以前の時代、当然のことながら治療を受ける患者さんは費用の全額を自腹で支払わなければならなかった。過去の時代においても医療費はけっして安くはなかったから、貧しい暮らしのものには医療の恩恵を浴することはできなかった。このため、このような人達を救済する目的で健康保険制度が生まれたのである。

【健康保険制度の開始】
今の健康保険の礎となったのは職工保険と呼ばれるもので、労災の救済がその目的で早い時代から存在していたのだが、これを職人以外のすべてのひとが利用できる制度に発展させたのが今の健康保険である。大正末期に健康保険法を作って国家が援助する形の健康保険を制度化した(この法案を審議した衆議院の委員長は、後の初代自民党総裁、現総理の祖父である鳩山一郎だった)。こうして国家が半額出資する「政府管掌保険」と政府が一割を出資して、残りの半額ずつを雇用主と被雇用者が負担する「組合保険」の二種類の保険が法律で定められた。昭和13年に内務省から厚生省が分離独立すると、市町村ごとの任意加入の普通国民健康保険組合と、同業者による特別健康保険組合が作られた。

【診療報酬の配分】
この健康保険の執行に当たって日本医師会(当時の代表は初代医師会長の北里柴三郎)と政府との間で契約書が交わされたのは大正15年11月4日のことであった。このときの条文によれば、政府が支払う報酬からまず官公立病院と薬剤師が政府の公定額を受け取り、その残りが医師会(開業医と私立病院)に支給される仕組みになっていた。つまり今でいうところの総医療費がまず決められて、なおかつ官公立病院を優先してその診療報酬を確保したのである。日本医師会は政府から一括して貰った診療報酬を医師会員に分配しなければならなかったが、この分配方法として編み出されたのがいわゆる「点数表」なのである。(つまり現行の点数表の原型を作ったのは日本医師会だった)。医療技術を評価して各項目に点数を付け、あとは1点をいくらに設定するかで支給総額に収めるようにした(点数・単価方式)。今考えれば実に合理的な報酬配分システムということができる。

【医療国家統制の始まり】
この政府と日本医師会とのあいだで交わされた契約は1年ごとに組みなおす自由契約であったが、戦況も進んだ昭和16年のこと、ときの東条内閣は戦時の統制経済政策の一環として、この医師会との自由契約を一方的に廃止してしまった。健康保険の診療報酬は厚生大臣の告示によって定めるものとし、日本医師会が自主的に決めていた健康保険点数表を政府が定めるという形にすることによって国家統制することにしたのである(昭和18年1月から実施)。戦後になってGHQは医療制度改革を指示はしたものの、保険制度改革には手を付けなかった。そしてこの戦時中にできた診療報酬支給の骨組みが、改正されることなく連綿として現在まで続いているのが現状なのだ。

【点数・単価方式の原理】
そもそも「点数・単価方式」においては、点数は医療技術の進歩によって評価の見直しを行うもので、単価は物価の増減によって調整して決定されるものであった。すなわち物価が上昇していけばそれと均衡を図りながら上昇させていくもので(つまり現行の1点単価が10円というのは本来固定されたものではなかった)、医療費抑制のためだけに医学的な根拠も曖昧なまま点数配分をいじらなくても、国家財政にあわせて医療費全体を調整できるものだった。それが本来の「点数・単価方式」の原理だった。以後、日本医師会は数次に亘って「診療報酬の引き上げ」を訴えたが、当初は物価の上昇に見合った適切な単価の引き上げを要望したものであり、単なる私欲的な増収の要求ではなかった。

【単価方式のみの変則的廃止と点数方式の一人歩き】
次に転機が訪れたのは昭和32年のことであった(この年に始めて日本医師会長に就任した武見太郎は52歳の壮年であった)。武見も物価の上昇に合わせた点数の値上げ案を中医協に提出したが、これをきっかけに厚生省は保険局長が中心になって作った新しい点数表案を作成した。現行の点数表(乙表)は廃止して、1点単価は10円と固定したまま、入院料や診察料のほうの点数を引き上げることによって医療費を調整する方式(「新医療費体制」と呼ばれた点数表つまり甲表)を提案したのである。この新たな厚生省の発案に対して猛反対した武見の主論点は、インフレ対策のない1点単価の固定への反対だった。ところで新医療費体制の点数再配分によって診療報酬が大幅に増額となった病院が厚生省案賛成に回ったため、以後甲乙2表が並存することになる。病院は甲表を採用し、開業医は乙表を採用して、これを境に病院と開業医が乖離していくことになり、病院は日本医師会からも切り離されていくことになる。

【医療内容への厚生省の介入と制限診療】
以後も、武見は1点単価のアップを訴え続けるが点数が10円から引き上げられることは永久になく、やむなく点数部分の引き上げをもって診療報酬の引き上げを要求していかざるを得なくなる。新医療費体制による特定の技術料の値上げ方式は、病院医療の内容にまで厚生省が介入することを意味していた。医療費を抑制する目的のために、抗結核薬の使用量を有効量の10分の1に制限するなどのいわゆる厚生省による「制限診療」が大きな問題となっていた。

【国民皆保険の実施と保険医総辞退騒動】
その次の大きなターニングポイントは、昭和36年4月から始まった国民皆保険の開始だった(昭和33年に国会を通過した)。保険制度の抜本的な見直しを要望してきた日本医師会は、制度改革が不備なままで国民皆保険を開始するのは時期尚早であるとして強くこれに反対し、1回目の保険医総辞退へと向かっていった。昭和36年に医師会から政府へ提出した要望内容は、1.診療報酬の引き上げ、2.制限診療の撤廃、3.事務の簡素化、4.地域差の撤廃、の4項目であった。総辞退騒動はぎりぎりまで折衝が続けられ、ときの政調会長の田中角栄の英断もあって目前で中止された。国民皆保険は開始され、制限診療が撤廃されることになった(これが最大の武見の業績と見る向きもある)。

【10年後の保険医総辞退】
10年前に田中角栄との折衝で武見が要望したことは、1.医療保険制度の抜本的改正、2.医学研究と教育の向上と国民福祉の結合、3.医師と患者の人間関係に基づく自由の確保、4.自由経済社会における診療報酬制度の確立、の4項目であった。このすべてを自民党が確約したことによって昭和36年の保険医総辞職が回避されたのだが、それ以後10年にわたって自民党がこれらの改革に着手することはなかった。10年後の昭和46年、武見は満を持して2回目の保険医総辞退を敢行、1ヶ月間におよぶ保険医総辞退が行われた。その後、政府は医師会と新たな約束をとリ交わして事態を収拾したのだが、またしてもそれ以後10年にわたって武見との約束は果たされることはなかったのである。結局、政府自民党は点数配分や診療報酬をいじるばかりで、抜本的な医療制度改革は棚上げにした。

【病院型医療への利益誘導がもたらしたもの】
新医療費体系の名のもとに、厚生省が病院優先型の健康保険点数を推し進めたことによってさまざまな弊害を生むことになった。診療報酬の改正のたびに入院料を上げ、外来診察料は据え置きにした。このような利益誘導のよる病院優先策が、病院の乱立(開業医の病院経営への参入)を招き、そのことが更なる医療費の増大につながっていったのである。病院経営者は空きベッドをなくすために、生活困窮者や老人に何とか病名を付けては入院させて、収入を上げようとした。病院のベッドの半分がホテル化するというこのような状況は公立病院も例外ではなかった。

【薬漬け、検査付けによる乱診乱療】
安易な入院とともに薬漬け、検査付け医療が医療費の増大にさらに拍車をかけたが、このような乱診乱療は医院よりもむしろ大病院で横行するようになった。後発メーカー(ゾロメーカー)が同じ薬を量産して競合することもあって、実質価格(安い仕入れ価格)と公定薬価のとの差額が大きな収入となるが、多量な注射薬を使う病院の収入は利益率が大きかった。

これまで薬代は潜在技術料と考えられていたものを、武見は薬価を引き下げて、浮いた分をすべて技術料に回すことを主張したが、相当分が保険財政の穴埋め、すなわち支払い側の取り分に回された。また、病院の勤務医には製薬会社からの働きかけも多く、学会への出張費や文献の収集に便宜を計ってもらう見返りに薬の宣伝に加担したり、実際に薬を多用したりもした。こうして製薬会社は成長産業に登り詰めた。

昭和40年に1兆円を突破した国民医療費は、昭和50年には6兆円を軽く超えた。老人医療費の無料化が医療費の増大にさらに拍車をかけ、地方の病院の過半数は老人によって占められ、新たな救急患者を収容する場所がないという事態を招いていった。このような状況のなか、これまで長年の懸案であった医師優遇税制の是正が敢行されるに至った。

【地域医療に対する構想】
武見は各地に医師会病院を作るように働きかけていたが、それは地域に密着した中核病院の必要性を感じていたからだ。アメリカではコミュニティーホスピタルが地方の援助で各地に出来ている。開業医は自由にその病院に出入りし、外来患者を入院させて、専門医と共同で治療に当り、また退院した患者の治療を続け、さらに地域の予防衛生活動を行うというシステムが定着している。わが国ではこのような地域医療をもとにした、一元的な医療制度は全く考えられてこなかった。厚生省は一貫して官公立病院、開業医という2本立ての医療を推し進めてきたのである。政府や厚生省がやらないから医師会でやろうという考えで、医師会病院や医師会検査センターの設立運動を展開したのである。武見の理論では、国立がんセンターなどの専門病院や大学病院は、地域医療の中核病院の上に立つ、第三次病院としてその役割をもっていたはずであった。武見は「国立病院、県立病院、私立病院があるのはわかるが、そうかと思うと日赤や済生会がある。日赤や済生会はもはや歴史的使命は終わっている。社会保険病院、厚生年金病院などの経営主体はまた別にあり、支離滅裂な医療体制になっている。こういう公的病院の体制こそが非常にムダであり、配置も経営主体もバラバラで、学術的な体制ではない」と主張した。

【健康保険の抜本改革案】
組合、政府、国民と分けられた、従来の3つの健康保険制度を全く一新して、地域、産業、老齢の3種の健康保険として統合するという制度案を提唱した。地域保健には会社の組合保険と国民保険を組み入れて統合し、地域単位の健康保険にする。そして産業保険(職域保険)は労災保険のみに特化させる。来る高齢化社会に対処するために、前の2つの保険とは別に積み立て方式の老齢保険(老人医療保険)を創設して、老齢になる60歳から病院受診時に給付を受けられるようにすることを想定していた。地域医療は地域によって必要経費がそれぞれ異なっているから、厚生省の決める診療報酬では画一的過ぎて現状に則さない。国民保険は地域保健として捉えて、各自治体で自主的な診療報酬を決めればいいという考えだった。厚生省はこの地域保健案に強く反対したが、その理由は、医療利益の一元化が破れて、中央による統制が出来なくなるからだった。

【まとめと今後の展望に関する私見】
25年間日本医師会長として君臨してきた武見太郎のやり方はいかにも旧時代的(そのころは自民党を初め、社会全体のしきたりが旧時代的であった)だが、彼が主張してきたことは本質的には正論であって今日にも当てはまることが多々あると実感した。武見は「学問に理解のない、無学の輩、学なき者は去れ」と厳しく官僚を批判した。医療の内容は医療の専門家である医師が決めるべきであって、素人の官僚が口出しをするなという強い意思表示である。ただ単に総医療費を抑制することだけに熱心で、医療内容にまで介入して医療統制し続けてきた厚生(労働)省。かつて厚生省が結核の治療指針をかってに作成したとき、武見はかんかんになって怒ったという、それは医師のなすべき仕事だと。

この50年の医療行政の歴史はひたすら厚生(労働)省が暴走しかけるところを、日本医師会がセーブしてきた歴史であるように思われる。政府自民党はいつでもその調停役で(厚生大臣はときに厚生省寄りに立ち振舞ったが)、この三者がトライアングルを形成してバランスを保っていた。が、昨今はこのバランスが崩れて厚生労働省が肥大化している感がある。かつては人脈と多額な政治献金(歯科医師会からの献金の10倍といわれている。日本医師政治連盟を献金のための窓口として作った。)で自民党を動かしてきた日本医師会ももはやそのどちらの伝家の宝刀も使えないことを認識しなければいけない。厚生(労働)省の暴走を阻止できるのは直接的には国民の代表である政府与党以外にはないのは間違いない。その政府に働きかける最良の方法が何かということを真剣に考えていかなければいけない。

アメリカで最終的に国民皆保険が受け入れられなかった理由の一つに、保険制度への国家の介入が健全な医学の発達を妨げることへの危惧があった。現在、医療の値段を国家が完全統制しているのは日本だけだという。残念ながら値段を統制することは医療内容を制限することに直結している。バラバラに乱立する保険制度、バラバラに乱立する病院群、バラバラに乱立する医学会、何をとってもまったく体系化されていない。縦も横もきれいに整理してシステム化を図ることが結局はさまざまなムダをなくし、そして健全な医療体系の構築につながるのではないだろうか。厚生省の医療統制の歴史は病院と診療所の分断の歴史でもある。日本医師会の亜グループ化の意見も聞かれるが、学会をも巻き込んだむしろもっと大きな医師のネットワークを形成して、世論とともに真っ向正面から政府へ働きかけることがもっとも有効な手段なのではないだろうか。厚生労働省の情報隠蔽体質に対抗してデータ解析を行うために創設した日医総研はもっと充実を図らねばならない。多くの専門家と若手の医師会員(大学や他のNPO法人から共同研究要員も召集)を投入してシンクタンクとしての機能を持たせ、理論の後ろ盾を自ら作る必要があるだろう。そのためには政治献金を減らして(日本医師政治連盟は解散)資金を流用すべきだ。最後に、大阪市の生活保護世帯は10世帯に1世帯にまで膨れ上がっているという。国民皆保険といいながら、保険にすら入れないひとが増えて、皆保険ではなくなっている。保険点数をいじって済ましている場合ではない。健康保険の一本化、中医協の解散(保険チェックは現在組合から委嘱された医師がおこなっているが、戦前は日本医師会の健康保険部がおこなっていた)、医療の値段(内容)は医師と国民の総意のもとに決定することを提言したい。

参考図書:
1.「誰も書かなかった日本医師会」水野肇著(ちくま文庫)
2.「猛医武見太郎」三輪和雄著(徳間文庫)
3.「実録日本医師会」武見太郎著(朝日出版社)

注:今回の投稿内容は主に参考文献2.の内容の一部を転記して補足したものです。
(2.の著者は前社会保険中央総合病院脳外科部長の医師です)。
これらの著書のなかで語られていることは、日本医師会・武見太郎の歴史であると同時にまさに医療行政の歴史そのものでした。今の日本が抱えている諸問題は、そのままこの50年、日本の医療行政が抱え続けてきた問題と認識しました。

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