医療ガバナンス学会 (2006年3月19日 20:43)
平成18年2月18日、福島県警は医師を業務上過失致死、および異状死の届出義務違反
で逮捕した。
この逮捕が現在多くの臨床医の驚きや憤りを招いている。
というのも、従来のいくつかの事件と違って新聞報道で見る限り、医師の目からは
明らかな過失があるようには見えない事件であったからである。
事故報告書(1)によれば、死亡したのは20代の女性であり前回帝王切開を受けている。
前置胎盤(後壁付着)のため36週で帝王切開術施行。
胎盤が子宮に癒着していたため児娩出後10分あまりで5000mlという大量の出血をきたす。
用意していた輸血も使い切る。発注するも東京などとは違い到着したのが一時間後、
子宮全摘術に移行したが結局20000mlの出血をきたして出血性ショックで亡くなられた。
術者となった産婦人科医はいわゆる一人医長であり、一人で毎日の外来と年間200件
の出産を手がけ、うち40件は帝王切開を行っていた。
胎盤癒着は事前に察知するのは難しいこと、また産婦人科の手術においてはときと
して大出血をきたすこと、産婦人科医が一人しかおらず、血液センターからも時間の
かかる土地であったことなどを考えると医学的に避け得ない不幸な出来事ではないか
というのが多くの医師の感想であったようだ。
すなわち、この事件が逮捕されるのであれば自分の日常診療における多くの行為が、
結果が悪かったことだけを理由に逮捕につながる可能性があると危惧された。逮捕当
日まで医師が同病院で働いていたこと、臨月である妻の目前で手錠をかけて連行され
たこともさらに医療関係者の気持ちを逆撫でた。
この事件は「慈恵医大青戸病院事件(2)」に沿った形での報道がなされてきた。
すなわち青戸病院事件は
【1】功名心に駆られた若い外科医が
【2】手術の経験がないにも関わらず
【3】上司の忠告も無視して
【4】途中開腹術に移るタイミングを逃すという判断ミスも重なって
【5】出血性ショックで患者が死に至った
という構図で語られることが多い(3)。
今回の事件についても、前年度に癒着胎盤の手術経験がなかったこと(読売新聞2月
18日)、産婦人科医は他に誰も手術に立ち会っていなかったこと(同)、他からの忠告が
あった(福島民友3月3日)ことなど、青戸事件と共通する点を強調した報道が目だっ
た。
だが、癒着胎盤自体極めて珍しくまた事前の診断が困難であるとされていること、
一人医長である以上他の産婦人科医は立ち会えるはずもなく、専門的な忠告を与えうる
人間もいたかどうか不明なこと、などを考えると単に表面的に類似しているだけに過
ぎない。
逮捕の6日後にまず日本産科婦人科学会・日本産婦人科医会が合同で、逮捕を疑問と
する異例の声明(4)を出した。
さらにその5日後福島県の産科婦人科医会ではこの医師を支えるために募金をつのる
グループが結成された(5)。
その後も東京都医師会(6)、神奈川県産婦人科医会(7)、いわき市他3医師会(8)、新
生児医療連絡会(9)、大阪府保険医協会(10) 茨城県産婦人科学会・医会・医師会(11)、
福岡県産婦人科学会・医会、大分県産婦人科学会・医会と各種の医師団体から、トー
ンの差こそあれ逮捕に抗議、あるいは疑問視する声明が出された。
それらの声に押されるように3月16日日本産科婦人科学会・日本産婦人科医会は厚生
省で会見を開き、
「医師に過失や故意はなく、刑事罰に問うのは不当」と強く主張した(12)。
これらの声明はいずれも既存の組織を核としているが、一方インターネットにおい
ても医師専用掲示板m3を母体に、有志が集まり『××医師を支援するグループ』名で
抗議声明を出して賛同者を募った(13)。
50時間の間に医師800人の署名が集まり、産婦人科医以外の署名も多くを占め、科に
よらずこの問題に関心ある医師が多数いることを伺わせた。
ネットのみを通して知り合った医師による共同声明というのは珍しく、医局・医師
会・学会いずれからも独立した医療者による草の根運動として非常に興味深い(14)。
3月10日未明より、この医師の所属する福島県立医大産婦人科による起訴猶予を求め
る署名運動(15)もはじまり、6500人を超える賛同者を集めたものの同日医師は起
訴され、今後長年にわたる裁判が予想される。
ここ数年世間と医療者との間の溝は深まっており、一種対立ともとれる様相を呈す
ることも多い。
患者から見ると、医者は要らない薬を沢山だして金を儲けている。態度も横柄。欧
米に比べ医療技術に劣っており、すぐに医療ミスを起こす。患者の無知に付け込んで
ミスを隠蔽し、しかもお互いかばい合うため裁判にもならず被害者は泣き寝入りを余
儀なくされる。
一方医者から見ると、患者の権利意識が肥大して無茶な要求をする。救急性もない
のに24時間コンビニのように受診する。医者に来た以上患者は必ず治ると思っている。
人は必ず死ぬ運命にあることをわきまえず、患者が死ぬと何かミスがあったのだろ
うと脅したり裁判に訴えたりする。しかも困ったことには医師から見てあまりに理不
尽と思う裁判の結果が出ることもままある。
こういったお互いの認識のすれ違いより起きる摩擦は、特に患者さんが急に亡くな
ることの多い産婦人科・小児救急・外科などに生じやすい。それらの科を専攻する医
者が減少していることの背景のひとつにはこういった、世間の風当たりの冷たさがあ
る。
産科医は24時間、真夜中だろうが朝だろうが呼ばれ、そのまま一睡もできずに外来
をすることも多い。公立病院では給料も安い。
だが終戦直後年間5000人を超えた妊婦の死亡が現在100人以下にまで減らせたのはこ
ういった地域の一人医長の働きである。彼らはへとへとになりながらも、この地域の
妊婦と新生児を守ることに誇りを持っている。
仕事がどれだけつらくても働く医者はいる、給料がどれだけ安くてもあまり気にし
ない医者もいる。手術が悪い結果に終わったとき、それが不可抗力でも患者や遺族か
ら恨まれることも覚悟のうちである。だが、自分のやっていることが全く認められて
いないと思ったときなお働き続けられる人は極めて少ない。
地域のため、患者のためになると思って頑張った結果、逮捕されてしまうのであれ
ばもうそんな仕事には誰もつきたくない。
この事件において医者の支持が従来の枠を超えて急速に集まった背景には、そのよ
うな思いがある。
この事件は日本医療においてターニングポイントとなりうる事件である。一人この
医師の問題にあらず、ただの福島県だけの問題にあらず、単なる産科領域の問題にも
とどまらず、わが国における医療全体において極めて重要な事例になる。
上述の『医師を支援するグループ』の7割以上が産婦人科医以外であるということも
そのあらわれであろう。
今後裁判や世論、法整備がどのように変化していくかは不明であるが医療者と患者
の間の認識のギャップが埋められ、両者にとってよりよい医療環境が整えられること
を切に願う。
(1) http://ssd.dyndns.info/oono/jikohoukokusyo.pdf
(2) 2002年11月慈恵医大青戸病院で腹腔鏡下前立腺全摘を受けた患者が術中の出血が
原因で1ヵ月後に死亡した事件。2003年の9月に執刀医ら3人が逮捕され、現在業務上過
失致死罪で裁判中である。
(3) 他にインフォームドコンセントの論点もある。また虎の門病院泌尿器科部長の小
松秀樹は(『慈恵医大青戸病院事件』(日本経済評論社,2004年))において、業務上過失
致死の範囲は明確でないため、医療過誤に対して刑事罰を課すことは事後的に結果の
みから罰することになりやすく医療の萎縮を招く、またシステムの問題である医療事
故を裁くのに刑法は適さないと述べ、青戸事件においても刑事責任は問うべきでない
としている。
(4) http://www.jsog.or.jp/news/html/announce_24feb2006.htm
(5) http://www.f-medical.com/faog/oshirase/katodoc.html
(6) http://www.tokyo.med.or.jp/kaiin/news/detail.php?NI=NW00198
(7) http://www.kaog.jp/20060306top.htm
(8) http://www.iwaki.or.jp/katou.htm
(9) http://www.jnanet.gr.jp/htmls/seimei.htm
(10) http://osaka-hk.org/
(11) http://www.ibaog.jp/topics/20060310.html
(12) 毎日新聞2006年3月16日
(13) http://medj.net/drkato/index.shtml
(14) 前例として1999年のいわゆる「杏林大学割り箸事件」に関して掲示板2ちゃんね
るで知り合った有志が立ち上げた『不当起訴された耳鼻科医を支援する会』
(http://erjapan.ddo.jp/)がある。
そもそも重篤な事態であることを疑うことが不可能であった、また疑ったとしても救
命は不可能に近かったと主張し、積極的に弁護活動を行っている。第一審の判決が3月
末に出る予定である
(15) http://www006.upp.so-net.ne.jp/drkato/