医療ガバナンス学会 (2010年4月4日 07:00)
東京大学医科学研究所
先端医療社会コミュニケーションシステム
上 昌広
※今回の記事は村上龍氏が主宰する Japan Mail Media(JMM)で配信した文面を加筆修正しました。
2010年4月4日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
【新型インフルエンザワクチンは足りなかったのか】
我が国では、昨年の10月から新型インフルエンザワクチンの接種が始まりました。厚労省によれば、2009年10月19日から11月29日の報告分までに接種した人数は推定600万人です。
一方、米国のCDC(疾病対策センター)によれば、2009年10月1日から11月24日までの間に、ワクチンを接種したのは推定4600万人です。
米国の人口を日本の倍として、日本の新型インフルエンザワクチン供給力は米国の約1/4と言うことができます。
新型インフルエンザワクチン不足が世間の注目を集めたのは、昨年の11月です。例えば、朝日・読売・毎日新聞で「新型インフルエンザワクチン」と「不足」で記事を検索すれば、昨年10月59件、11月136件、12月53件、今年1月15件、2月6件です。11月をピークに記事数が急速に減っているのがわかります。国民が必要とした時期に、必要な量のワクチンを供給出来なかったことになります。
【欧米では輸入ワクチンは普通】
新型インフルエンザワクチン不足に関するメディアの論調は、「ワクチンが国内だけで準備できなかったのは、20年の遅れがあったからだ。今後は、全て国内で製造できるように補助金を積んで製造設備を作ろう。それがワクチン後進国からの脱却だ」で、ほぼ一致しています。
本当に、この解釈でいいのでしょうか?実は、新型インフルエンザワクチンを自国だけで確保出来た国はありません。何れも外国からの輸入と合わせて、自国民分を確保しようとしました。
例えば、米国政府はグラクソ・スミスクライン社(GSK,英国)、ノバルティス社(スイス)、サノフィ・パスツール社(フランス)からワクチンを輸入しています。基本方針は、アジュバントを含まないワクチンを使いますが、ウイルスが強毒化するなど問題が生じた場合には、アジュバント入りワクチンを使うことを予め制度化しています。そして、昨年5月頃にはワクチン購入に必要な予算を確保しています。
欧州諸国も、輸入ワクチンを使うという点では米国と同じですが、確保方法が違います。欧州諸国は、ワクチンメーカーとパンデミックワクチンの事前購入契約を結び、流行時に優先して供給してもらうように手配しています。例えば、英国は国内企業であるGSKと米国のバクスターと契約を結び、2回打で全国民分のワクチン購入権を確保しています。また、フランスは自国のサノフィ・パスツール社、および英国のGSKと契約を結び、2回打ちで67%の国民分のワクチン購入券を確保しています。
スペイン・ポルトガル、北欧諸国は、国内に新型インフルエンザワクチンを製造する工場がありません。このような国にとって、ワクチン=輸入ワクチンです。
我が国ではワクチンを国内で賄うことが、危機管理に必須という論調がありますが、欧米諸国は逆です。リスクを分散するため、複数の国から確保しようとしています。我が国の石油確保戦略と同じです。私には、国産品に拘るより合理的に思えます。
【初動の遅れが致命的だったワクチン確保競争】
我が国の新型インフルエンザワクチン不足の最大の問題は、ワクチン確保の初動が遅かったことです。欧米諸国は遅くとも5月にはワクチン購入権を確保していますが、厚労省が輸入ワクチン確保に動いたのは8月末です。それも、官僚主導ではなく、舛添前厚労大臣が、総選挙の遊説中に政治判断で発表しました。舛添氏の働きは高く評価しますが、3ヶ月間の出遅れがクリティカルでした。外国に購入権を買われてしまい、ニーズが大きかった10-11月に輸入ワクチンを準備できませんでした。
このように考えれば、新型インフルエンザワクチン不足は、官僚が招いた人災です。民主党は、どのような経緯で、輸入ワクチン確保が遅れたのか明らかにして欲しいと思います。
【国際協調こそ、ワクチン確保の肝要】
我が国では、いざワクチンを輸入するとなっても、なかなか上手く進みませんでした。ワクチン被害者の無過失救済制度や製薬企業の免責などの社会インフラが整備されていないため、GSKやノバルティスとの交渉に手間取ったのです。我が国の体制が世界標準と大きく異なるため、国際協調できなかったという見方も可能です。我が国が反省すべきは、輸入を視野に入れてワクチン確保体制を作っていなかったことです。
製薬メーカーは合併を繰り返し、幾つかのメガファーマに再編されました。ワクチンメーカーも同じです。再編を通じ、グローバル企業が生まれました。このような企業は、特定の政府の支配を受けるわけではなく、独自の行動原理に従って活動します。厚労省と国産メーカーの関係とは違います。
例えば、GSKは英国の会社ですが、工場はドイツとカナダにあります。ノバルティスはスイスの会社ですが、英国、イタリア、ドイツに工場があります。逆に、英国にはノバルティス、フランスにはサノフィ・パスツール、イタリアにはノバルティス、ドイツにはGSKとノバルティスの工場があるとも言えます。
欧米の約半分の国は、国内に新型インフルエンザワクチン工場がありませんが、問題はありません。ワクチンメーカーと交渉して、自国民のワクチンを確保しています。
一方、日本には4つの小規模なワクチンメーカー(阪大微研、北里研究所、化血研、デンカ生研)があり、日本国内で完結しています。護送船団方式で守られ、独自の進化を遂げたため、「ガラパゴス化」しています。厚労省から、無理難題をふっかけられても、唯々諾々と従がいます。
【国産ワクチンに拘る愚】
今回のワクチン不足を教訓に、政府や審議会の委員たちは、国内でのワクチン生産能力を高めようとしています。果たして、こんなことは可能なのでしょうか?
今回の新型インフルエンザ騒動では、この4社で5400万回分のワクチンを作り、既に1800万人に接種したのですから、その努力は高く評価できます。新型インフルエンザワクチンに関して言えば、我が国は、他の先進国と遜色ないレベルの自国製ワクチンを生産しました。
問題は、トリ・インフルエンザの流行に備えて、国民全員分のワクチン確保を、国内メーカーだけに頼ろうとしていることです。
新型インフル対策は危機管理です。危機管理に対応できるように、国内メーカーが平時のワクチン工場を作るのは自殺行為です。稼動率の低い大型設備は不採算部門となります。結局、赤字を埋めるために補助金漬けになり、ワクチン開発力を損ねる結果になりかねません。このような手法では、グローバルなマーケットで競争して勝ち残ったGSKやノバルティスに追いつける筈がありません。
政府がなすべきは、法定接種の枠組みを増やし、ワクチンマーケットを大きくすることです。また、非関税障壁の撤廃も重要です。そうすれば、ワクチンメーカーの参入インセンティブが高まり、公正な競争が行われます。やがて、実力ある国産メーカーも誕生するでしょう。そうすれば、危機管理に対応することも可能になります。
【不活化ポリオワクチンの悲劇】
一方、不活化ポリオワクチンなど、ほかのワクチン・ギャップの状況は違います。新型インフルエンザワクチンの製造施設を持たない国でも、不活化ポリオワクチン、子宮頸がんワクチン、ヒブワクチンは、以前から普通に接種されていました。
このようなワクチンの我が国への導入が遅れたのは、政府が輸入を拒んだためです。例えば、ポリオワクチンの場合、海外では野生株を不活化したワクチンが開発され、GSKやサノフィ・パスツールが販売しています。不活化しているので、ワクチンによってポリオに罹ることはありません。
一方、我が国では未だに弱毒生ワクチンが使用されています。このため、ポリオワクチンを打った小児がポリオを発症したという悲劇がなくなりません。
ポリオワクチンは、予防接種法で定期接種に位置づけられています。厚労省は、定期接種ワクチンは国内で供給したいと考えているようです。財団法人日本ポリオ研究所に不活化ワクチンの開発を依頼しています。同研究所では、海外で普及している野生株の不活化ではなく、セービン株という弱毒株を不活化しようとしています。10年以上研究が続けられていますが、製品化されませんでした。
痺れを切らした厚労省は、財団法人日本ポリオ研究所、第一三共、里研究所に、DTP三種混合ワクチンと不活化ポリオワクチンを合わせた混合ワクチンの開発を依頼しました。まだ臨床試験の途中で承認の目途はたっていません。
我が国での開発がもたつく間に、海外では新しいワクチンが開発されます。例えば、DTP、不活化ポリオにヒブワクチンを加えた混合ワクチンが開発されていますが、我が国に輸入されることはありません。それは、国内メーカーが別の混合ワクチンを開発中だからです。
ワクチン・ギャップは、このようなイタチごっこの繰り返しです。国産 vs. 輸入という提供者サイドの都合ではなく、国民視点に立ち、ワクチン政策を考え直す必要がありそうです。