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Vol. 123 国立がんセンターよ、厚労省ではなく現場を見よう

医療ガバナンス学会 (2010年4月6日 07:00)


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帝京大学ちば総合医療センター
血液内科・教授
小松恒彦
2010年4月6日 MRIC by 医療ガバナンス学会


【はじめに】
2010年4月から国立がんセンターは、独立行政法人国立がん研究センターへ衣替えされる。日本のがん医療を牽引する施設が、官主導から患者の立場を尊重した医療者主導となることを切に希望する。新たに理事長となられた嘉山孝正先生の手腕と指導力への強い期待と、自ら潔く後進に道を譲った土屋了介先生の決断には感銘を受けた。これから(独)国立がん研究センターがどのように改革されるか、注意深く見守っていきたい。

筆者は2002年より厚生労働科学研究・がん臨床研究事業等の研究代表者・分担者・協力者として外部から国立がんセンターに関わってきた。本稿では、それらの経験を踏まえ問題点を提起することで、少しでも国立がん研究センターの改革に繋がることを期待する。

【骨髄移植の多施設共同研究に参加して】
15年ほど前、日本の造血幹細胞移植(以下、移植)は医療水準も治療成績も世界に引けを取らないレベルにあった。しかし2000年頃から治療強度を減弱した移植(以下、ミニ移植)や臍帯血移植が脚光を浴びるとともに、根拠に基づく医療(evidence based medicine, EBM)が常識となり、医学根拠を作る体制作りが求められた。日本では移植に関しても小規模な施設が乱立しており、治療方法も移植の適応もまちまちで、欧米並の医学根拠を作ることは難しかった。

それを打開し、小異を捨てて大同に就くべく、2002年に当時国立がんセンター中央病院幹細胞移植科の若手医師たちが立ち上がり、自ら全国行脚を行い、本邦初のミニ移植における多施設参加の前向き臨床試験の実施に漕ぎ着けた。盛時は、北は北海道から南は九州までの移植医が集まり、「日本全体としてデータを出して欧米と張り合おう」とまで気運が高まった。当時、筑波記念病院血液内科の一医師であった筆者も参加を表明し微力ながらも症例を登録し、その流れを止めないよう力を尽くした。当時、虎の門病院で月1回移植症例カンファランスが開催され、移植経験豊富な、または若手の医師が多数集まる、大変楽しく為になる会があった。ある時は遠く沖縄から症例の相談に来られたこともあった。そのような有形無形の支援があったので、地方病院の1人医長だった筆者でも最先端の臨床試験に参加し、世界水準に接することができた。当時は、これで日本の移植医療も世界レベルに伍していける、との高揚感があった。

しかし、2003年後半から雲行きが怪しくなってきた。その頃から、主任研究者を務める国立がんセンターの部長の暴走が始まった。20数施設が参加する多施設共同研究であったが、驚いたことに某部長から各施設に、多施設共同研究なのに「がんセンターの方針に従うか」と踏み絵を迫る郵便が届いた。筆者は「外部に踏み絵を迫るのはいかがなものか」と考え、その旨を返送した。

その後、研究班会議が開催された。驚くべきことに異論を唱えたのは筆者のみだったらしい。それもあってか某部長は「文句があるなら症例を全て引き上げてもらって結構です」と発言、筆者は「患者さんが命を懸けて参加してくれたデータを無に帰すことはできない」と主張した。孤立無援ではあったが、積極的に某部長を擁護する発言もなく議論は平行線であった。
結局、「論文等にする時は、がんセンター以外で最も登録症例数が多い施設の代表者を筆頭に、次席は某医師にする」ということで決着がついた。その後、残念ながら気運は一気にしぼみ、予定の期日を過ぎても目標症例数に達せなかった。その後は自分の異動もあり、残念だけど忘れよう、がんセンターとはこれで縁が切れると考えた。

すっかり忘れていた2008年、目標数には達しなかったがせっかくなので米国血液学会で発表しよう、ということになったらしく抄録がメールで送られてきた。しかし発表者の順位が全く異なっており、目を疑った。これは変じゃないか、前言っていたことと違うと考え、某部長に質問状を返信した。参加施設がアドレスにあり全員に返信したので、実質公開質問状であった。返答は「そんなこと言った覚えはない」「すぐ亡くなる患者を登録され迷惑だった(きちんと事前にセンターに適確基準を確認してから登録したのですが)」など、全く建設的な議論にはならず、周囲の方にも迷惑が及んだため断念した。迷惑をかけた皆様にはこの場を借りてお詫びしたい、しかし間違ったことは主張しなかったつもりである。

この顛末は、この研究が厚生労働科学研究班の枠組みで行われたか否かが問題となり、最終的には厚労省まで巻き込んだ議論となったが、結局は誰も止められなかった。一旦、「部長」や「班長」という既得権が与えられれば、絶大な権限が際限なく維持されるのを目の当たりにした。これが、厚労省には媚びへつらい、医療現場には威張る御用学者の実態である。国立がんセンターの臨床研究のレベルを揶揄されるのは、このような幹部によるところが大きい。

筆者は外部の人間でもあり、そんなボス争いには興味はなかった。しかし、せっかく日本の移植医療がまとまる兆しが頓挫したことが残念でならない。移植にかぎらないが、いまやすっかり欧米の後塵を拝し、「医学根拠は誰かが作ってくれるもの」に成り下がっているのは間違いない。

【厚生労働科学研究に参加して】
筆者は2006年度にがん臨床研究事業と第三次対がん戦略研究における4つの研究班の研究分担者となり、2007年からは小松班(がん医療における医療と介護の連携のあり方に関する研究)の研究代表者を務めた。いずれもがん医療における社会的な問題を対象とした研究であった。筆者自身、満足な結果を残せなかったことに悔いが残るが、研究班代表者または分担者としての経験と感想を残すことで多少なりとも還元したい。

2006年に2つの研究班から研究費の配分を受けた。当時はまだ市中病院の勤務医で、このような公費の助成を受けたのは初めてであった。研究テーマと方法を決めて結果を出す、という過程は通常と変わりないが、予算の執行には大いに難渋した。

国民の税金に由来する公費からの助成なので、誰もが納得する厳格な執行が必要なことは当然である。しかし、使用基準が複雑怪奇で当初はどのように使っていいのか全く分からなかった。予算管理の専任者を雇っていただき(通常はそれすらも困難)分厚い手引書を読み解き、使用実績のある知り合いに何度も問い合わせ、それでも分からない時は国立がんセンターの担当者に確認した。「厚生労働科学研究費使用の手引き」なるものが存在するが、表面的な記載のみで個々の案件の手引書としては不十分であり、しかも平成18年度版の発売が平成19年3月という有様であった。
筆者は2006年8月に帝京大学に異動、2007年4月に小松班の代表者となり、より多額の研究費を管理する立場となった。一般の皆様には想像がつくだろうか? 複数の分担者に研究費を配分し、その口座残高を翌年2月末までに利息も含めてぴったり0円とし解約しなければならないことを。使途や金額にも細かい制限があり、公費助成なので当然とは思いつつも、実際の研究以上に予算管理に労力が必要であった。

他にも、厚労省に呼び出され研究の進捗状況を聴取されたことがあった。研究課題が「医療と介護の連携」であり、率直に「独居や家族力の低下に伴い、在宅が望ましいのは分かるが、現実には帰る場所がないがん患者が多くマニュアル化することは難しい」と述べたところ、担当者から「在宅(が原則)と閣議決定されたのだから、それ以外は考える必要はない」と指導された。当時、どのような形で研究成果を残すか悩んでいたので、ある意味「そうか、そんな厄介なことは考えなくていいんだ」と目から鱗が落ちた。しかし、現実を直視せず、穢れのない祝詞(和歌)を詠んでいれば現実が呼応するという、平安時代の言霊政治と何ら変わらない事実に唖然とした。政権交代以前の出来事ではあるが、これでは世の中が代わってほしいと思う人が多かったのも当然と思う。

【おわりに】
2つのエピソードに共通するのは、健全な批判のない聖域に安住していると価値観がずれて独善的となり、組織内の論理が最優先されることである。確かに我々の側にも「面倒なことはお上が決めてくれる」という意識や、「市民の意見」ともなるとエキセントリックな部分がなかったとはいえない。国立がんセンター改革は緒に就いたばかりだが、日本のがん医療の現状にしっかりと直面する組織となることを期待する。

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