医療ガバナンス学会 (2020年1月6日 06:00)
ヴァイオリニスト
音楽教育研究者
安久津太一
2020年1月6日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
ニューヨーク市立大学大学院の教室は、およそ日本の多くの教員養成の大学院とは異なっていた。米国では音楽教育はK-12(厳密にはP-12)と分類され、保育所(Pre-K)、幼稚園(Kinder)から高等学校まで、幅広く音楽教育を学ぶ。すなわち、公立の幼稚園であっても、音楽専科教員が巡回して音楽活動を提供する形態が広く普及している。日本のように、すべての幼稚園教諭が、苦手や不安を克服しながら、ピアノ弾き歌いや音楽指導法の基礎技術獲得に取り組む形態とは大きく異なるのである。
またニューヨーク市立大学の大学院生の平均年齢はずっと高く、当時すでに30歳を超えていた私は、なんと最年少であった。そして大学院の仲間が、大変ユニークな音楽経験や人生経験を有していたことも特徴であった。例えば、親友のZは、大手の銀行員で、しかし週末はジャズバンドのドラマーとして長年ダブルワークで働いてきたが、やはり音楽を生活の中心に据えたいと決心した。しかし演奏だけでは生計が立てられないので、この際正式に教員免許を取って、公立学校で音楽教師になることを決めたそうである。なんと退職金を使って大学院に入学したのである。もちろん家族も子供もいる。お父さんの立場もあり、この辺りは日本では聞いたことがない、キャリアパスを目の当たりにした。また米国では(日本以外の多くの海外がそうであるように)、学士を卒業しているだけでは、正式な教員にはなれない。ニューヨーク市立大学では、昼間は臨時教員として音楽を教えながら、夜間に大学院で学位を取得し、正採用を目指す形態も多かった。この場合補助金や助成が一定額ある上に、修士号を取得した暁には、教員や保育者としての給与や職位も確実にアップするのである。
もう一点、集まる大学院生が多彩で、専門性も非常に高かった。日本のように、一律ピアノを始めとする基礎技術を並べて求めるよりも、向こうの大学院生は確固たる音楽の専門を持っていた。例えば5歳児のお母さんでもあり、公立小学校の音楽の先生をしているJは、ピアノは全く弾けなかったが、歌うとピカイチで、模擬授業の演習では、途中からピアノが混乱してしまい、全くわからなくなってしまっていたが、「もういいわ!」と歌いだし、その後はゴスペル調の見事な歌で、学生や子どもたちを魅了していた。『天使にラブソングを』の映画さながらの光景であった。私も、弦楽器やオーケストラの専門性を活かして子供達と関わる豊富な実践を開発し、日々楽しく、大学院の指導教官や仲間、そして子供達と過ごしていた。音楽以外にも、歴史や心理学、社会学など、まさにアメリカと言える、対話型や問題開発型、批判的思考を求められる授業が多く、夢のような大学院生活だったと言える。
さて、日本の教員養成に視点を移そう。私は2011年に米国での10余年の生活に区切りをつけ、帰国後間も無く星槎大学と出会うと言う幸運に恵まれ、音楽教育の実践の場をいただき現在に至っている。その間東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科で博士(教育学)の学位を取得、現在は岡山県立大学で保育者養成及び幼児音楽教育の研究に日々取り組んでいる。
教員養成に携わるようになると、すぐに見えてくるのが、日本の教育制度との関わりである。例えば、幼稚園教育要領、保育所保育指針・幼保連携型認定こども園教育・保育要領には、領域「表現」が5領域の一つとして存在し、その中に音楽も含めて位置付けられている。すなわち、日本では幼児に、音楽を独立して「教える」のではなく、幼児が生活の中で音や音楽と出会い、表現する姿を育むことが記されている。私はこの方向性に賛同し、子どもの育ちを支え、寄り添えるような音楽表現のスタンスを心地よく感じ、日々学生と共有しながら楽しく授業をさせていただいている。
しかし、課題を挙げるとするならば、米国の教員養成の例と比較して、専門性、あるいは「先生」の強みを生かした保育や音楽教育が出来ているかというと、大きな疑問を感じるのも事実である。実際、ここ数年で多く遭遇したケースだが、日本の学生さんは、「能ある鷹はつめを隠す」で、せっかく幼少期からピアノを専門的に学んでいたり、吹奏楽で全国1位になったり、ヒップホップのダンスがプロ級であったり、能をはじめとする伝統芸能に豊富な経験を有していても、皆一様に、それらの専門性を封印し、ごく一般的な、幼児のための音楽教育の実践だけに走ってしまう傾向がある。制度に一因があるのか、教員養成の制度に問題があるのか、金太郎飴のような一般幼児教育家を育成する結果に陥っていることは大変もったいないと考えている。
私はヴァイオリニスト、指導者、音楽教育の研究者として、幼児が初めてヴァイオリンと出会い、触れたり聴いたりして、究極の学びが展開することを知っている。ヴァイオリンという小さな楽器から始まる遊びと学び、そしてその接点は大変興味深い研究テーマでもあり、複数の国際論文で検証を進めている。何れにしても、日本の幼児教育を概観した時に、幼児が本物の楽器、音楽、友達、演奏家と身近に接し、関わり合う体験は何にも代えがたい最良の音楽教育になるだろう。日本の公教育にも多様な音楽教育の実践が普及すること、それには学生さんや先生方、一人一人が違って良いので、何らか専門やサブスペシャリティを持つことが肝要と考えている。
最後に一点、音楽教育に、本物の音楽の存在は必須だが、必ずしも専門家レベルの演奏が必要ではないと、私は寛容なスタンスで捉えている。例えば、若い先生が、家で眠っていたリコーダーをふと手に取って、子ども時代以来、久々に練習した『きらきら星』を幼児に届けたとしよう。きっと幼児は先生の演奏に釘付けになり、遊びの手を止め、じっと目を凝らして先生を凝視するだろう。ちなみに、ここで「はい。静かにしなさい。」等と言って、構えて音楽しないことが指導のポイントとなる。ゲリラ・ライブ、ストリート・パフォーマンス型の演奏と言えるかもしれない。
人が楽しんで演奏する姿と接し、そしてそれを鏡のように映し出して、幼児の表現は自ずと引き出される。音楽の学びに見る模倣の心とは、世阿弥が記した『風姿花伝』にもあるように、あらゆる学びに通ずるかもしれない。他者が没頭する様々な異なる学びから、関わり合いの中で学ぶこと。人と違っても良い、多様で多彩なヴォイスやアプローチで子ども達と楽しく関われること。これこそが専門性であり、同時に未来を担う子ども達の様々な専門性を育むと信じている。あわせて若い先生方、子ども達が、あらゆる場面で専門性を発揮して表現出来るオープンな環境や風土も大切に育んでいきたい。