医療ガバナンス学会 (2010年4月22日 07:00)
【川崎協同病院事件】
川崎協同病院事件は、今から12年前(平成10年)に起きた事案である。気管支喘息の重積発作により心肺停止状態で搬送された患者に対し、蘇生は成功したものの、入院から2週間が経過しても意識が回復しなかったことから、家族の要請を受け抜管したところ、患者に苦悶様の症状が強かったことからセルシン、ドルミカムを点滴静注、なおも改善しないため、同僚医師の助言によりミオブロックを点滴静注した。事案から3年後、病院内の内部紛争を契機に俄かに騒ぎが発生し、医師の退職を経て、平成14年4月に病院が記者会見を行い世間に知られることとなった。
当時の世間の風潮から検察も動かざるを得ず、刑事事件として起訴され、平成17年の地裁判決(懲役3年執行猶予5年)、平成19年の高裁判決(懲役1年6月執行猶予3年)を経て、平成21年12月7日最高裁判所(第三小法廷)による上告棄却(高裁判決の維持)の決定により本件の刑事司法における決着を迎えることとなった。
殺人罪としては最も軽い量刑であったことや、最高裁決定において意図して許容される尊厳死、消極的安楽死の基準が示されなかったと考えられることなど、見るべき点が多いが、本稿では立ち入らないこととする。
【刑事司法手続きの問題点】
この本は、須田先生が当該患者を診療していたところからはじまり、逮捕、勾留を経て最高裁まで争った経過を時系列に沿って本人の視点から記載されている。
本書により、刑事司法手続きがどのように行われているか、それぞれの手続きが利用者から見るとどのように感ぜられるのかを知ることができる。
今回、指摘するのは以下の三点である。
1)「事件化」されていく経緯
2)「逮捕・勾留」について
3)有罪率99.8%という刑事裁判における問題点
それぞれの典型論点が具体的な事案においてどのように表れるかを示していく。
【「事件化」されていく経緯】
ある事案が、犯罪に該当すると思料された場合に、捜査は開始される(刑事訴訟法189条2項)。しかし、日本全国で行われているすべての事象を警察が把握しているはずもないため、捜査を始めるにはその端緒が必要となる。
端緒の種類はさまざまで、告訴、告発だけでなく、新聞報道であったり、匿名の情報であったりと様々な態様が存在する。
ここで重要なことは、犯罪の捜査は国権の発動であり、一部の犯罪を除き、被害者や関係者の希望とは関係なく行われるということである。したがって、場合によっては別の動機をもった者が端緒を提供したとしても、警察は、当該事案が犯罪に該当すると思料すれば捜査を開始することとなる。このことが、当該行為に対する強力な抑止効果を生む源泉となっている。
本件において、須田医師は、家族の目の前で抜管しており、3年以上何事もなく経過していた。事実関係の実際のところは分からないが、少なくとも、抜管当時は家族の了承・納得は得られていたものと考えられる。しかしながら、事案の発生から3年後に事件化され、4年後になり、突然、逮捕・勾留されることとなった。
一般的に、医療現場において、患者にとって良かれと思って行ったことが、形式上犯罪に該当するとなると、例え患者本人が強く希望したことであっても行うことができなくなるのは、このような刑事司法による強力な抑止力が原因となっている。1999年より起こった司法による医療バッシングの末、萎縮医療が生じたのは当然の結果なのである。
また、勤務医は、このような事案が発生すると、病院という組織との間で利害が対立してしまうことが多々ある。その結果、勤務医は当事者でありながら、自分の与り知らぬうちに不利・不当な立場におかれてしまうことが往々にしてあることも指摘したい。この解決には、病院が勤務医を保護することが病院組織の存続上合理的選択となるよう設定することが必要である。いくつかの解決方法が考えられるが、多岐にわたる大きな問題であるため、別の場で論ずることとしたい。
【「逮捕・勾留」について ~許されざる人権侵害~】
日本の刑事司法は「人質司法」と言われ、自白がなされるまでいつまでも警察署(代用監獄)に閉じ込めるという運用がなされている。
昨今、新聞を賑わせた冤罪事件である足利事件においても、菅家さんを閉じ込め、自白を強要したとされている。
裁判所が自白を重く見ていることもあり、捜査機関において自白をとることが至上命題化してしまい、刑事訴訟法の明文に反し、逮捕・勾留が自白をとるための手段と化しているというのが日本の現状である。
本件においても、事件から3年が経過していること、須田医師は、川崎協同病院を既に退職して開業していること等を考えても、勾留事由どころか、逮捕の必要性すら認められないにもかかわらず、検察は、24日間もの間身体を拘束しつづけたのである。
福島大野病院事件や東京女子医大病院事件においても同様であるが、メディア報道を伴った見せしめ的な逮捕・勾留は絶対に許されてはならない人権侵害であり、医療者は、この一連の不当・違法な逮捕・勾留があったことを決して忘れてはならない。
医療事故に刑事罰が付されている限り、いつ何時逮捕・勾留されるかわからないという現実を医療者は肝に銘ずべきである。
【有罪率99.8%という刑事裁判における問題点】
日本の刑事司法の特徴として、異常なまでの有罪率の高さがあげられる。最近までの年度ごとの有罪率は99.8%~99.9%となっており、起訴された時点で有罪はほぼ確定するといえる。
もちろん、検察が有罪になるだけの証拠を固めた事案のみを起訴しているのであるから、この結果は検察官が優秀であることの表れと言えなくもない。しかし、このような刑事司法の状況が長年続いたことにより、例え誤っていたとしても、検察の主張、立証を退けることの困難さが不当なまでに高まっているということも言われている。即ち、刑事司法においては、裁判官は、検察官の主張が正しいことを後追い確認するとの方法が慣習化され、「有罪推定の原則」となってしまっているということである。冤罪事件が発生するのもこのような刑事司法の状況が原因となっているともいえる。
本件においても、1)家族の同意の有無 2)看護師が投与した薬剤について事実認定上争われたものの、1審ではともに検察主張どおりの認定がなされた。控訴審において1)については覆ったものの、2)については最終的には認められなかった。
事実認定において、重要な事実については合理的な疑いを越える証明が必要であるのだから、本件においても被告人側が当該事実に付き、合理的な疑いを差し挟むことができれば足るという刑事司法の原則に沿った認定を行っていれば、異なる結果となった可能性は否定できないと考える。
【司法が扱える範囲を明確にすること】
本書は、臨床家が突然刑事司法手続きに巻き込まれた経過を臨床家の視点から描かれており、上記にあげた論点についての示唆に富むものであった。
最後に、本書を執筆された須田医師に感謝の意をこめて、彼女の言葉を抜粋したい。
「抽象的な法律論の整合性に腐心し、その結果、異様ともいうべき『殺人罪の成立を認めざるを得ない』という実情無視の観念的な結論を出してきたとしか思えません。司法が踏み込む必要のない場所に乗り込んできて、殺人罪というモノサシを振りかざして医療者を追い回すことに、何の意味があるというのでしょう。」
「かつて、私たちが医者になったころは、患者さんに接するときは自分の家族のように、一番よいと思われる治療をほどこすように教わりました。・・・患者さんやその家族から、訴えられることがないように、少しでもリスクのある場合には、客観的な説明をしたうえで、あとはクールに患者サイドに決めてもらい、責任を回避する。患者さんへの感情移入は御法度、ということになれば、医療とはいったい何なのだという根本的な疑問にかられます。」