最新記事一覧

Vol.205 乳腺外科医裁判逆転有罪高裁判決を受けて~ (4-1)

医療ガバナンス学会 (2020年10月17日 06:00)


■ 関連タグ

この原稿は「診療研究」10月号からの転載です。
http://expres.umin.jp/mric/mric_2020_205.pdf
(※こちらから全文お読みいただけます)

いつき会ハートクリニック
佐藤一樹

2020年10月17日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

はじめに~医師会・医学会・本協会・筆者の見解から~

本年7月13日、東京高等裁判所は、いわゆる乳腺外科医裁判(準強制わいせつ被告事件)控訴審において、東京地方裁判所刑事第3部の無罪判決を破棄し被告人に懲役2年を言い渡した。
実刑である。確定すれば刑務所で2年間の労役となる厳しい判決である。
原審では、乳腺腫瘍摘出術後の女性患者の診察時に、執刀医が健側の胸をなめ回し、二度目の診察時に自慰行為をしたという事件があったとするには、合理的な疑いを挟む余地があると判示していた。

本件裁判の実質的争点は、I . Aの証言の信用性、および、その外在的な補助事実として麻酔覚醒時のせん妄の影響の有無とその程度、II,アミラーゼ鑑定及びDNA型鑑定の科学的証拠としての許容性、信用性及び証明力であった。
7月22日、記者会見で日本医師会中川俊男会長は強く抗議の念を示し、同席した日本医学会門田守人会長はせん妄状態に関する検察側の証人の意見に対し、「根拠が科学的なものでなく、推測だとしたら許されるものではない」と強調した。( https://www.med.or.jp/nichiionline/article/009505.html )
これに先立つ7月17日、当協会では「東京高裁 第10刑事部の乳腺外科医裁判逆転有罪判決に対する声明」( https://www.hokeni.org/docs/2020071700010/ ) を発表し、主に本控訴審判決における1非科学的誤謬、2反医学的判断、3非当事者対等主義による人権侵害、4「疑わしきは被告人の利益に」の原則否定について裁判所の不当な冤罪に対する見解を述べた。

また、8月3日、筆者が個人として投稿した医療ガバナナンス学会(MRIC)の論考「被告人の利益か犯罪被害者の保護か」が掲載された( http://medg.jp/mt/?p=9786 )。ここでは、性的幻覚を見やすいプロフォールが約2倍量投与されたことに相まって、被害を訴える患者さん(裁判判決に準じ「A」と呼ぶ)が性的刺激の強いDVDや動画に数多く出演するなど、職業活動上繰り返される経験がせん妄として現れる、医学用語の「職業せん妄」として、性的幻覚を見た可能性が高いことを指摘した。さらに、A本人のブログで男性がAを対象にした自慰行為をイメージした発言が何回もあったこと、手術前日にせん妄のリスク因子である飲酒をし、数日前には記憶を失うまで飲酒していたことを、弁護側が前述のDVDなどとともに証拠申請したが却下された事実を述べた。

また、弁護人は上記DVDや自慰行為をイメージした発言が現在でも残っているブログについて、法廷でA本人に対して尋問を試みたが、検察官からの執拗な異議があり裁判官はこれを認めた。筆者個人の見解では、一審裁判官は表向きには裁判証拠採用しなかったが、Aの信用性にとって極めて不利となる真実を知り、心証形成に影響した可能性がある。証拠申請却下の時点で、Aの真実など証拠にしなくとも無罪判決を書けると判断した蓋然性が高い。しかし、控訴審裁判官はDVDも動画も自慰行為ブログの存在事実も知る機会がなかった。
さらに、Aの自慰行為という衝撃的場面を目撃したことについては、信用性を否定した一審を逆転する論証が欠如していることを指摘した。
本稿では、MRICの上記内容を簡単にしか扱わないが、極めて重要な点を詳細に述べたので、一読されたい。

第1章 総論的批判

1.「アミラーゼ定性反応鑑定、DNA型鑑定」の新証拠なしの逆転有罪は最高裁判決に反する
医療側からみればひどく非科学的手法だと指摘され、一審ではその信用性を否定された科捜研のアミラーゼ定性反応やDNA型鑑定のリアルタイムPCR検査に関する控訴審検察側からの新証拠は提出されていなかった。一審判決対する控訴趣意での検察側の反論では「論理則・経験則に照らして」という文言の繰り返し使用し、原判決を覆そうとしたところ、裁判所はそのままその文言を繰り返した。検察や裁判所が、論理だった主張や判断をできないときや誤謬を用いるのに「論理則・経験則に照らして」は常套文句である。「科学的証拠と論証」とは対極にある類いのものだ。

一切の新証拠なしに、控訴審で逆転有罪とするのは最高裁判例に反する。本年2年1月23日の最高裁判所第一小法廷判決では、一審で無罪判決が宣告された被告人に対して検察官が控訴した場合において、控訴審が被告人に対して逆転有罪判決を宣告する場合には、新たな証拠調べが必要であると判示された。過去の最高裁大法廷判例(※注)には同様のものがあり、従前の最高裁の考え方を維持し、被告人に対して逆転有罪判決を宣告するにあたって、必ず新たな証拠調べが必要であるとの判断を示している。
この判断は、市民感覚でいえば、安易に控訴審において有罪の判決が宣告されてしまうと、被告人や御家族の負担は耐え難いものになることを反映しているといえるであろう。
本件において、裁判所は「アミラーゼ定性反応鑑定、DNA型鑑定」に関して新証拠なしに逆転有罪判断の根拠としたのである。

2.誤った控訴審裁判指揮:外科手術直後の患者を精神科医は診ない
Aに術後数分後に出現したせん妄に伴う性的幻覚を見ていた可能性について、控訴審裁判所は、「原審で取り上げた西村医師(検察側証人麻酔科)及び中田医師(検察側証人精神科)がせん妄による幻覚の存在を否定する証言には、それぞれ原判決が指摘するような問題点があるので、必ずしも適切な専門的知見が得られているとはし難い。そこで、・・専門的知見を得るために専門家」を、裁判官の職権(刑訴法392.2)で新証人として二人の精神科医だけを採用した。

(1)精神科医だけに依拠した控訴審判断:術直後患者の臨床診療は外科と麻酔科である
通常の強制わいせつではなく、「準強制わいせつ」とは、人の心神喪失若しくは抗拒不能に乗じ、又は心神を喪失させ、若しくは抗拒不能にさせてのわいせつな行為をいう。「抗拒不能」とは、精神的な傷害により正常な判断力を失っている状態や心理的又は物理的に抵抗ができない状態のことで、具体的には睡眠、酩酊等の状態や、錯誤などによって抵抗を期待できない状態などを指す。

本件において「抗拒不能」な状態にさせたものは何か。当然、周術期の麻酔の影響である。麻酔による「精神的な傷害」の存在、あるいは、心理的又は物理的に抵抗ができない状態の存在が本件においては絶対条件のはずである。
外科手術直後の術後管理を精神科医はしない。本件のように術後数分から始まる30分以内の臨床現場を精神科が実際に診ることはない。この時間帯に、患者に沿って診療しているのは外科医と麻酔科医(集中治療科医を含む)とそれらの科の看護師だけである。実際に経験がない医学領域は真の専門家とは言えない。経験が豊富だ、などと言えるはずがない。
術後せん妄を精神科医が診るのは、他科からコンサルテーションされた場合であり、通常は外科医や麻酔科医が対処できない場合だけであろう。
しかも、実際の麻酔では、鎮静薬、笑気、吸入麻酔薬、麻薬、非ステロイド抗炎症座薬さらに術後追加の非ステロイド抗炎症点滴薬が種類としても経時的にも複合的に投与されている。各薬剤単体の薬理効果や副作用については、添付文書や文献で書かれたものを証拠とすることができるが、複数の薬剤を臨床症状に合わせて適宜投与する薬理効果や副作用については、添付文書も文献もない。そこで、臨床経験としての外科医や麻酔科医の証人が必要となってくるのである。

(2)腫瘍手術直後のせん妄臨床経験のない司法精神専門家をせん妄を専門とする腫瘍精神科医より重視
弁護側唯一の証人は、埼玉医科大学国際医療センター精神腫瘍科 大西秀樹教授で年間の新規患者が240人、診察数が2500人で一番多く診るのが乳腺患者という専門家である。せん妄自体の診察数が一番多くせん妄に関する学術論文の執筆や発表も多数ある。
一方、検察側唯一の証人は、自ら法廷で提示したスライドによれば「『せん妄』研究の専門家でもない、『幻覚』研究の専門家でない、司法精神医学の専門家」で獨協医科大学越谷病院こころの診療科 井原裕教授であった。

控訴審判決は、弁護側証人はがん患者を診ているが、がん患者には高齢で、既往症など様々な要因から全身が衰弱しているのでそれらの一般論のせん妄と本件は違うので信用性が低い。これに対して、検察側証人の「せん妄を飲酒酩酊(の度合いと刑事責任能力)に関する(1935年発表の)ビンダー(論文の)3分類に比定した見解は、一種の比喩的表現であって、学界において一般的に承認された考え方ではないが、このことから同医師の当審証言全般の信用性が損なわれるものではない。・・せん妄に関する豊富な臨床経験を有し」と信用性を絶対視し、同証人による原審および控訴審の二人の弁護側精神科証人の批判が妥当すると判示している。検察側証人の「術直後のせん妄の臨床経験が豊富である」という証拠はどこにもないのであるから、判断の焦点とすべき的を射てない上、極めて偏った判断である。
控訴審裁判官は、外科術後管理のことも、複合的に投与された薬理作用も、術後せん妄のことも、せん妄に伴う幻覚の知らない、精神科医一人に依拠して判決文を書いたのである。

※注
最高裁大法廷判決昭和31年7月18日(刑集10巻7号1147頁)控訴審に係属しても被告人等は、憲法31条(法の適正な手続による人身の自由を保障)、37((被告人が公平で迅速な公開裁判を受ける権利))等の保障する権利は有しており、その審判は第一審の場合と同様の公判廷における直接審理主義、口頭弁論主義の原則の適用を受ける…従って被告人等は公開の法廷において、その面前で、適法な証拠調の手続が行われ、被告人等がこれに対する意見弁解を述べる機会を与えられた上でなければ、犯罪事実を確定され有罪の判決を言渡されることのない権利を保有する。
つづく

MRIC Global

お知らせ

 配信をご希望の方はこちらのフォームに必要事項を記入して登録してください。

 MRICでは配信するメールマガジンへの医療に関わる記事の投稿を歓迎しております。
 投稿をご検討の方は「お問い合わせ」よりご連絡をお願いします。

関連タグ

月別アーカイブ

▲ページトップへ